いまだにVAN(中篇)『ヴィンセント海馬』7
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「情報量がちがう?」
結に聞き返され海馬の眼差しは宙へと向かう。
この表情、大好き——結の鼓動が高まる。
「結のおじいちゃんは将棋強いんだね。アマ四段、昇段おめでとう」
「な?!」
いきなりだし——それはかなりの最新情報!
「ええええ! 何で知ってるの!!!」
たしかに、おじいちゃんの頭は最近将棋のことでいっぱいだ。
でも、おじいちゃんと無関係の高校生に知れちゃうほど、頭いっぱいじゃない。
海馬くん・・・何でよそのおじいちゃんの情報まで知っている?
答えはすぐに判明した。
「美南が見せてくれた写真に、将棋連盟の賞状が映りこんでたから」
「写真? 海馬くん、おじいちゃんの写真、見せてもらったの?」
「ああ」
おととい——フォトグラファ美南に『おじいちゃん写真を撮ってもらう約束』をした。優しくてアクティブ全開のフォトグラファは、その日のうちに結の家に来てくれた。
「どう? いい写真撮れた? ちょっと、見せて」
「ダメ! 作品が出来上がるまでのお楽しみ!」
美南ちゃんはそう言っていた。
でも・・・わたしに見せてくれる前に海馬くんに見せる?!
たしか写真集にしてくれるって言ってたから・・・単純に、海馬くんにアドバイスをもらうために見せただけかな。2人は同じ中学だしね。でも、ちょっと気になっていたんだけど、前に海馬くん、美南ちゃんのこと「天才」ってほめてたよね。
あ! そういえば昨日・・・海馬くんはこの図書室で、写真がたくさん載っている『色についての図鑑』をずっと見ていた。写真の色合いとかにも詳しそうだし・・・うん。きっとアドバイスだよね。ていうか美南ちゃん、まさかわたしの部屋の写真、この人に見せたりしてないよね・・・
「結、聞いてる?」
「あ、ごめん」
「いくら将棋四段のおじいちゃんでもさ、あと1手で負けるって局面を持たされたら負けるよね、結にも」
「え?」
——ん、将棋の話だっけ?
「あ、まあ、そりゃそうだよね」
「でも、おじいちゃんと結がホンキで平手で戦ったら」
「え! わたしが負けるでしょ」
「どうして結はおじいちゃんが勝つと予想した?」
「それは・・・おじいちゃん、将棋強いから。すごい詳しいし。何十年もやっているし」
「たぶん、結とおじいちゃんとでは、持っている情報量が違う。将棋ってさ、定跡っていう基本的な戦法を知らないと何もできないんだよ。知ってる?」
「うん」
じつは——将棋のことはすごく知っている。初心者は、たくさんあるコマのうちどのコマから動かせばいいのかもわからない。そして定跡を外した箇所にコマを動かすと、すぐに大ピンチに陥ってしまう。好きなように指そうとしても、ぜんぜんムリ。すぐにとがめられ、行き詰まる。結はずっとずっと前、小学生になったばかりのときにそれを経験した。
「逆に定跡を知って正しく活用できればかなり強くなれる。人間らしさだとか正直さだとか要らない。その定跡から外れてたら勝負には負ける。すぐに詰む」
詰む——
そういえばおととい、美南ちゃんは言ってた。
「美南ちゃん、めっちゃ頑張ってるね」って別れ際、声をかけたら、フォトグラファ美南は笑って答えた。
「おう! この歳で詰むわけにはいかないから!」
海馬くんの和服姿は、まだ見慣れないはずなのに、不思議とよく似合っている。本物の将棋の棋士みたいな風貌と言えなくもない。
「なんか海馬くん、将棋も強そうだね」
「いやぜんぜん。先週、始めたばかりだよ」
「ホントに?」
結は将棋歴はおよそ10年。今まで学校の友だちとやって負けたことは1度もない。将棋道場に通っていた時期も長い。大会で優勝したこともある。一時期は女流棋士を夢に描いたこともあった。
「ちょうど1週間くらいかな。しかも人間とやったことは1度もないよ。結、オレ、はじめてだけどやってみる?」
「?!」
どうしよう。1週間か・・・。こっちは10年のリードがある。勝てるかな? 先週始めたばかりだよね。でも海馬くんのことだから、将棋の本を100冊くらい読んで、棋譜をいっぱい見てあらゆる戦法、とくに見たこともない、最新の戦法を身につけていそうな気がする。
海馬くんの1週間とわたしの10年が同じくらい?!
それはツライ。
でも、ちょっと戦いたいな。
結はついさっき言われたセリフを反芻する。
——結、オレ、はじめてだけどやってみる?
は じ め て だ け ど
や っ て み る ?
ひぃぃぃ!
どうしよう!
「結、聞いてる?」
「え?」
「オレ、青空文庫で芥川の作品をいろいろ読んだとき、発想したんだ」
——ん? 将棋の話はすでに終わってる?
「あのさ、将棋は王が取られたら終わりでしょ」
「うん」
つづいていた、将棋の話!
ていうか、文学の話を将棋に例えていたのか。
「ただ冷静に考えると、ギョクが取られても、他のコマが残っているよね、まだ。でさ、その残りのコマでも戦えるっていうルールだったら、まだ勝負を続行しなくちゃいけないよね」
考えたこともなかったけど、そっか。でも——
結は想像する。
「うーん、どうなるんだろう?」
メチャクチャだ。
王を狙うという最終目的がない。それはもう、将棋じゃない。
「杜子春が暮らしていた当時の価値観やら死生観みたいな、大事な判断のルールをインストールしていないオレが、この話を読んでもわからない。死ぬのはちっとも怖くないとか、地獄は本当にあるとか、人は生まれ変わることが大前提になっていたら、判断基準がぜんぜん変わっちゃうでしょ」
結の頭の中で、文学と将棋が重なり合う。
「たしかに」
「オレには杜子春が置かれたこの局面が、詰んでいるのか詰んでいないのか判別がつかない。最後の最後に、杜子春が勝ったのか負けたのかさえも、現代のルールしかしらないオレにはわからない。おまけに何とかするにしても、戦略を導くための情報が不足している」
「——」
結はゆっくり考える。
そして・・・海馬くんや自分の『わからなさの原因』がわかった気がする。
詰んでる場面だけ見せられてもどうにもできない——そっか! だから、核ミサイルが飛んできた日の朝だけを想像しても答えが出ないんだ。すでに詰んでる場面から「どうする?」と考えても仕方がない。
詰むずっとずっと前にどうすればいいか考えればいいんだ。当たり前すぎる!で、そのどうすればいいかは、毎回その都度、局面をがんばって見て、持っている情報を駆使して判断する。でも杜子春がもっている情報はすべて作品に書かれているわけでもないし、昔の価値観は今とはだいぶ違うから、杜子春の行動は理解もできない。
そっかそっか!
美南ちゃんはだからあんなにアクティブなんだ。
——この歳で詰むわけにはいかないでしょ!
美南ちゃんに会いたくなった。
LINEは知ってるけど、まだ連絡していない。
「あのさ、海馬くん、質問なんだけど」
「うん」
「今と昔では価値観が違いすぎるってことだよね?」
「そう」
「じゃあ・・・美月先生には悪いんだけど、そもそも、昔に作られた小説、読む意味なくない? そんなの真剣に読んだら、頭がぐるぐる回るだけな気がするよ」
「だからAIの龍之介が必要なんだよ」
だからAIの龍之介——
「結、もしかして昨日からずっと頭がぐるぐる回っちゃってた?」
正解。
泣きたくなるほど正解。
「うん」
「ごめんな」
海馬くんは素直に謝ってくれた。
感覚的に結は分かった。この「ごめんな」は受けちゃダメ。結は慌てて言った。すごくフラットに。すごくナチュラルに。芥川が言うところの、人間らしい、正直な心持ちで。
「いいよ。大丈夫。わたし、ぐるぐる回れて、本当に良かった。ありがとう」
外から観たらバカみたいだけど、死ぬほど真剣に考える。頭と心をすり減らす。誰も助けてくれない。ひたすら今までの自分と向き合う。勇気を振り絞って未知に踏み込む。将棋の苦しい対局を終えて、勝利したときの気分。将棋の大会で初めて優勝したあの瞬間に似ていた。
「そっか。良かった。じゃあさ——」
棋士みたいな少年はさらりと言った。
「昨日の宿題出せなかったかわりに、このAIの名前を考えてきてよ。放課後までに」
「え?」
「OK? じゃあ、早く行かないと遅れるよ、授業に」
は や く い か な い と
お く れ る よ
「はっ! 海馬くんは行かないの?」
「うん。オレ、水曜だから休み」
す い よ う だ か ら
や す み
「そもそも水曜の制服持ってないし」
そ も そ も
す い よ う の せ い ふ く
も っ て な い し
(後篇につづく)
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