ゴローちゃんとクロアチア 『ヴィンセント海馬』漢検篇★3★
ココアを一口すすると、少年は他の客の邪魔にならないように、声のトーンを適切にコントロールしながら言った。
「パナポヘ先輩も丁謂みたいに異色な人なんですけどね」
ていい?
あ、今さっき海馬くんが暗唱していた、幸田露伴の文の中の人か——
でもごめん、ちょっと・・・どうでもいいというか・・・幸田露伴もパナポヘ先輩の話も、たった今はあんまり興味ないというか、すごい人はもうおなかいっぱいというか・・・
最悪だな、わたし。
もはや頭の中が缶詰パイナポゥ状態。
つまり輪切りで空っぽ。
でも——
もう隠さない。海馬くんの前では率直にいこう。
想いをすぐに引っ込めるのはやめよう。
「なんか、わたしにはムリってことが分かったよ」
「え?」
「ムリ。ぜったいムリ」
「ムリって何がですか?」
「漢検1級。ムリとか言いつつ、心の奥ではさりげなく甘く、何年もかければいずれはとか思っていたけど」
空っぽな上に甘い、輪切りのパイナポゥ。
世界がちがう。もういいや。そもそも誰に頼まれたわけでもないし。
あわよくば合格。きっと誰かに見栄を張りたかったんだ。
すごくなくていい。凡人中の凡人だし。
凡人の凡っていう漢字、かわいくて大好き!
この先試験は受けないけど、勉強だけはするよ。完全に趣味に留めていた方が気楽だし、新しい言葉を知ること自体が楽しいんだから。でもさ、負け惜しみじゃないけど、英検1級取得者なら重宝されるだろうけど、漢検1級は役に立つ場面がまったく思いつかないな。実際、鳳梨が読めたところでどうしようもないし、パイナポゥ! とか馬鹿みたいに元気よく答えても落ち込むだけだし——教師のくせに漢字の勉強がまったく意味ないみたいなことを、グダグダとまとまりもなく、よりによって自分の生徒にやさぐれMAXで伝えたあと、美月先生は半べそで店内を見渡した。
壁には世界のあちこちで撮られたと思われる風景の写真が、美しい木製の額縁に収められ、等間隔に飾られている。美しい教会と石畳。静かで思慮深い森林。羊と草原と雲。
明日からは何も決まっていないゴールデンウィーク。ボッチのぜんぜんゴールデンじゃないウィーク。できるだけ遠くに行きたい。旅でもしたいよ。
「遠くですか」
「うん。もう地球の裏にでも行っちゃいたい」
フォトグラファ・・・か。写真家の人って、こういう写真を撮るためにわざわざ遠くの場所へ、外国とかまで行くのかな。すごい情熱。素直に尊敬する。いや、違うか。たまたま旅先に綺麗な風景があったから写真に収めただけのかな。
しばらく放心していると、鍋島さんがロシアンコーヒーを運んできてくれた。
「お待たせしました」
銀髪の少年はコーヒーには一瞥もくれず、黙ってじっと写真の世界に見入っている。国語教師が恐る恐る湯気の立つ液体をすすると、寒い国の大天才、ドストエフスキー的な苛烈さが一気に体内を駆け巡った。
嗚呼!
天才!!
苦労なく覚えられる人!
ズルい!!
たしか昔読んだ同じくロシアのチェーホフは穏やかに諭していた。
「途中の階段をすべて飛ばすような考え方は不幸だ」
でも・・・バカってやっぱりイヤだな。
ちょっとずつしか階段をのぼれない凡人の頭は疲れるよ・・・
ひどい!!
最初から最後まで、こんな凡人の頭で。
凡人でいいけど、凡人はいやだ。
一度しかないこの人生を、最初から最後まで、
凡人として生きなくちゃいけないなんて!!
美月先生の目から涙が溢れそうなタイミングで、氷雪のような色の髪を持つ少年が、傷ついた心をそっと包むようにデータを与えてくれた。
「落ち込むべきではないと思います。漢検1級ってもともとほぼムリゲーなんです。1級の合格率って数パーセントで一見、少しは希望があるように見えますけど、その数パーセントってリピータばかりなんです」
「リピータ?」
「つまり、何度も同じ人が合格しているってことです。実質の合格率は1パーセント前後じゃないのかな」
「そ、そうなの?」
同じ人が何度も受験する?
どうして?
ギリギリでも何でも1度受かってしまえば『憧れの1級の称号』を得られるのに? 高額な受験料を払って再受験するその動機がわからない。
「5回受かって真の1級取得者という認識というか、こだわりがあるんです。あ、オレの知る1級合格者の間では、ですけどね。真偽不明だから話半分に聞いてください。彼らいわく、1回の合格ではたまたま問題と相性が良くて、正答率が80パーセントに届いただけかもしれない。アベレージとして160点を超えられる実力を身に着けたい。漢字ギークたちはそういう意見らしいです」
「5回!」
気が遠くなる世界だ。自分はいまだに問題集の模擬テストで、200点中50点すら取れないというのに。それにしても海馬くん、なんで漢検についてこんなに詳しい?
「海馬くんにはその・・・漢字ギークの友だちがいるの?」
「そう! そういう感じで身に着けていくのが自然ですよね」
「え?」
「今、美月先生、『漢字ギーク』っていうオレが創った言葉を、すぐに使ったじゃないですか。そういうノリが大事なんです。一人でテキストで勉強するのは限界があります。それよりは・・・1級で出題されるような漢字ばかり使っている集団があるんですけど、そこに所属すれば自然と奕棋のような語彙が身につきます。イメージとしては——」
少年は言葉を切って、少し考えを整理した。
「英語の留学みたいな感じです。普段、英語を使わない場所にいる人が、あえて英語しか使われていない場所に身を置くように、難しい熟語や漢字ばかり使う1級合格者のグループに身を置けば、美月先生ならめっちゃ頭が柔軟なんで、きっとすぐに上達します」
さ り げ な く
ほ め て く る か ら
「でも、たぶん——美月先生は漢字ギークになりきれないと思います。先生が1級を取得できる確率は限りなくゼロに近いかな」
あ げ て か ら
さ げ る !
し か も
は っ き り ! !
「ただ、性分がギーク的じゃないからこそいいんです。美月先生、オレ、ひとつ先生にお願いというかリクエストがあるんです」
ん?
このセリフ前にも聞いたことがあるような・・・
「先生、たぶんこの漢字、読めますよね」
呉 呂 茶
ううう。
読めちゃう。地名や国名はもう1級の試験にはほとんど出題されなくなってしまったけれど、楽しいからつい覚えてしまうんだよね。
この漢字は——
「クロアチア!!」
『ゴローちゃんとクロアチア旅行』って覚えたんだ。ゴローちゃんって誰だって話だけど。あ! ていうかまた張り切って答えてしまった・・・満面の笑みでパイナポゥ事件の二の舞だ。すばらしく速やかに落ち込みかける美月先生とは反対に、ヴィンヴィンはニッコリ笑った。
「さすがです。ねぇ、先生——」
ヴィンセント・VAN・海馬は、マグカップを手にとり一口すすった。そしてココアよりも甘い声でそっとつぶやく。
「オレ——」
きた!
もう耐性はついてるから。
このタイミングの『オレ』は、もちろん『カフェオレ』ではない。
このオレが連れてくるのは——
呉呂茶レベルの無茶ぶりリクエスト!
来る!
なんだろう。
想像もつかないけれど。
革命級なのがきっと来る!!
ロシアンコーヒーの代わりに息を飲んだ。少年は透明度の高い、澄んだ湖のような目で、美月先生を見つめた。
「先生に、バレエを踊って欲しいんです」
読後📗あなたにプチミラクルが起きますように🙏 定額マガジンの読者も募集中です🚩