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いまだにVAN (前篇)『ヴィンセント海馬』7


いまだに不安だ。

渡辺結はバス停でバスを待つ。

4月11日火曜日。まだ1週間経っていないけれど、渡辺結には海馬くんも美月先生もいるから期待しかない——と思いたいが不安しかない

定期を買ってしまったのでバス通学。しかもバスで来る友だちはほとんどいないことが判明。むしろいつものメンバー、略して『いつメン』自転車で来る子ばかり。ならば今からでも自転車でいいじゃない——と思うのだけれど、もったいない気がしてバスを選んでしまう。

こんなに晴れているのに。

自転車なら気持ち良いだろうなぁ。新しくできた友だちと待ち合わせをして、みんなで並んで走っておしゃべりをしたり、遅刻しそうになって「ヤベー!」とか言いながら全力で自転車をこいで校門を目指したり

お金を払ってバス停で待たされてる。しかもひとり。そして次はギュウギュウになる。何がしたいんだ自分。

ようやくバスが来た。

やはりギュウギュウの満員。乗れただけでもラッキーと思う自分。

後ろに海馬くんがいないか確認する。


バスにゆられている間、結は海馬くんから出された宿題について考えていた。『松尾芭蕉のAI』を育てるのを断るのなら、かわりに『芥川龍之介のAI』を育てるための小説を書いてきて——

どうして友だちに宿題を出されなくちゃいけないのか意味がわからないし、『断るのなら、かわりに』って、なぜ引き換え条件になっているのかも意味不明。さらにいえば、『AIを育てるための小説』って、その存在自体が謎すぎる

「下手とか上手いは関係ないよ。龍之介のAIは何でも読んでくれるから」

小説自体、書いたことがないから、何をどうやって書いたらよいのか皆目、見当もつかない。芥川龍之介に読ませるための小説を書けとか、日本で一番難しい宿題のような気がする。

結はつり革につかまり、ギュウギュウの中、スマホを器用に操作してインターネット上にある『青空文庫』にアクセスした。青空文庫には名作がたくさんアップされている。

海馬くんはたしか『河童』が好きだと言っていたが、結は『杜子春』が印象に残っている。とくにラストの場面。結が読んだ『杜子春』は、小学生でも読めるように今のことばで書かれていたが、青空文庫では原文そのままになっていた。それでもちょっと読める。成長した自分感が多少嬉しいが、それどころじゃぜんぜんない。

昨日の夜から何度も『杜子春』を読み返した。

頭ではもう寝ようと思っているのに、何度も読み返してしまう。


人間界に愛想を尽かした杜子春は、ひとりで鉄冠子という仙人のもとで修行を始めた。仙人の教えはただ1つ。どんな魔性が現れても、決して声を出してはいけない

「好いか。天地が裂けても、黙つてゐるのだぞ。」

酷いことが連発するのに、我慢を続けた杜子春。しかし・・・杜子春は、エンマ大王によって、自分のパパとママがひどい目に遭わされているところを見せられる。つらい光景を目の前にして苦しむ杜子春。杜子春ママは言う。

「心配をおしでない。私たちはどうなつても、お前さへ仕合せになれるのなら、それより結構なことはないのだからね。大王が何とおつしやつても、言ひたくないことは黙つて御出おいで。」

杜子春はママの自分を想う姿に心を打たれる。「何といふ有難い志でせう。何といふ健気な決心でせう。」

そして一言・・・「お母さん。」

* * *

「どうだな。おれの弟子になつた所が、とても仙人にはなれはすまい。」

片目すがめの老人は微笑を含みながら言ひました。

「なれません。なれませんが、しかし私はなれなかつたことも、反かへつて嬉しい気がするのです。」

杜子春はまだ眼に涙を浮べた儘、思はず老人の手を握りました。

「いくら仙人になれた所が、私はあの地獄の森羅殿の前に、鞭を受けてゐる父母を見ては、黙つてゐる訳には行きません。」

「もしお前が黙つてゐたら——」と鉄冠子は急に厳おごそかな顔になつて、ぢつと杜子春を見つめました。

「もしお前が黙つてゐたら、おれは即座にお前の命を絶つてしまはうと思つてゐたのだ。——お前はもう仙人になりたいといふ望も持つてゐまい。大金持になることは、元より愛想がつきた筈だ。ではお前はこれから後、何になつたら好いと思ふな。」

「何になつても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです。」

* * *

子どものときに読んだのと、なんだか印象がまったく違う。うまく言えない。ぐるぐると頭の中が回ってしまう。もう忘れちゃったけれど、小学生のときは、「家族の愛情に感謝して、穏やかに生きるのが一番」みたいな感想を持った気がする。でも・・・もし自分が杜子春だとしたら、どうする?

ホンキで読んだ。珍しく——正確には初めて、受験でもテストでもないのに、文章を真面目に、時間をかけてちゃんと読んだ


芥川龍之介に伝える言葉が見つからない。

ただの1つも見つからない。

励まされているような気もするし、騙されているような気もする。

試されているのかもしれない。

みんななら、どうするんだろう?

読書感想文を宿題にしたり、授業で感想を書かせる国語の先生の気持ちが分かる。そして「できれば、国語の宿題を出したくない」という美月先生の気持ちも分かる。小説をホンキで読んだら、ぐるぐる、ぐるぐる回っちゃう。そのときに感じた思いを言葉にして伝えようとしても、どう書いてもウソみたいに思える。

乗り過ごさないように注意して、バスを降りた。もちろん、そこにはオレンジのジャージの海馬少年は待っていない。


始業時間はまだまだ先なのに、結は走った。

早く海馬くんに会いたい。

たしか、海馬くんはぜんぶの作品を読んだって言ってたよね。

海馬くんならどうするだろう。大切な人がひどい目に遭っていても、自分の考えを貫くのだろうか。

それとも人間らしく生きるのだろうか。

あんなに人間を超えちゃっているのに。


教室にはいなかった。結はカバンを置くと、3階の封印された図書室へと向かう。

「やっぱり——」

ドアには鍵がかかっていない。

直感的には答えを人に求めるのは反則な気がする。

自分で考えなくちゃいけないことだと思う。

でも答えが知りたい


自分が杜子春みたいな状況におかれたら、どうする?


パパとママ、おじいちゃんが悪いヤツに人質にされてるのに——

不安だよ! 

不安で叫びたいよ!

地獄みたいな日がいきなり来たら不安だよ


ネットの朝のニュースには不安なことがたくさん書かれている。

戦争、自殺、交通事故、不倫、いじめ、殺人。

とくに戦争

最近は何でも戦争と結びつけてしまう。

戦争と結びつけたら最後、グルグルは止まらなくなる

みんなLINEのニュースとか見てるんだよね?

朝、テレビ見てるんだよね? スマホでネットやってるんだよね?

なんでみんな平気? ひとりで考えすぎ? わたし臆病すぎる?

戦争が起きて、閻魔大王みたいなのに家族が捕まっても、わたしはわたしでいられるの? 貫こうとしていた考え方を、あっさり変えちゃう?

「戦争が始まっても、オレは絶対に行かない」って言う子もいる。

でも、目の前でたくさんの人が死んでも、変わらない

日本で戦争が起きた。核兵器で死者がたくさん出たというニュースが流れた朝の光景。自分がいる高校の教室の風景を想像する。

ついこの前まで、あんなこと言ってたのに。

みんないきなり変わったらこわいよ!

逆に・・・

戦争のニュースも聞き流して、みんな平気だったらそれはそれでこわいよ!

変わらないのがいいのか、変わった方がいいのかもわからない。


こんな感想をぶつけられても、AIの龍之介は困るだろう。

美月先生はもっと困ってしまいそうだ。


真っペイルな顔の結は図書室の扉を開けた。その扉は思ったよりも軽くて、勢いよく開いてしまった。カーテンが閉められた暗い部屋の一番奥にひとり、芥川を真似て作った和服をまとった、銀髪の少年がいた。

「海馬くん!!」

「おお、結」


ゆいって美しい響きだね。

なんでゆいの友だちは渡辺って呼び捨てにするの? 

もったいないな


そう言ってくれた、忘れられない朝を思い出す。そんなに遠くのことではない。つい先週のことだ。不安だったのに、不安じゃなくなった朝。

そしてわたしはまた不安。

いつも、そこにいてくれる力強い友だち。

こんな朝が夢みたいに消えてなくなってしまうんじゃないかって不安


結はおはようも言わず、説明もなく、叫ぶようにいきなり答えだけを求めた。

ねぇ、海馬くんが杜子春だったらどうする? わたし、昨日からずっと頭がぐるぐるしちゃって泣きそう!」

自分の声があまりに大きく、そしてその内容がいつもの海馬くんのように唐突であったことに驚いたが、もう聞いてしまったものは仕方がない。

「わたし、めちゃくちゃフアン!」


ヴィンセント・VAN・海馬。

不安という名を持つ少年は慌てることなく、少女の不安を穏やかに、しっかりと受け止めた。

「結、こっちに来なよ」


自分のとなりの椅子を引いて、座らせてくれた。

そして——朝はいつも教室にいない新しいクラスメートは、結の問いに対する答えを、この世界でもっとも近い場所で、そっと教えてくれた。

「オレにはわからない」


驚いた。

海馬くんに、答えられないことがあるの?

ただ——わからないというその言葉の響きには、いつものような力強さがあった。

「杜子春とオレでは——持っている情報量が違うから」


も っ て い る 

じ ょ う ほ う り ょ う が

ち が う か ら 


(中篇につづく)


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