『親にとっての宿題』学ビ舎いろはに008
藍澤誠/Jの先生です。
よく聞く悩みですが、学校が宿題の量を減らしてくれるわけではないので……自分たちの側でマインドを変えるしか方法はいまのとこないし、宿題がケンカの材料になっちゃうのはもったいない! と私、藍澤誠/Jの先生は思います。
私の塾では学校の宿題を積極的に一緒にやるのですが、宿題は「学校の先生のため」にやるのではなく「自分のためにやる」ことにしています。
あるいは「コミュニケーションの手段」として使っています。
先日塾に入ったばかりの小3の女の子が、算数と国語の宿題を持ってきました。この算数のプリントを45分かけてやったのですが、勉強しながら、最初から最後まで仲良く楽しくやれました。
たとえばこの日は、「1分30秒が何秒か」という問題に苦戦していました。家だったら、親の前でもたもたしたら、もしかしたら怒られてしまうかもしれません。
大人はできるから、そう言いたくなる気持ちもわかります。
そんなときは私が出題する次の問題を思い出して欲しいです。
私はできます。
問1は、筆算にしてみるとどうしてこうなるかわかります。原始人の計算みたいに1という棒が並んで、3ケタなら12321と左右対称になる仕組みが理解できると思います。
問2は 10の位の5に+1して掛け合わる。つまり6×5=30をして、それを上二桁にします。次に1の位を掛け合わせ、2×8の16を下二桁にして3016にするだけです。かんたん!
さて――これらの計算の仕組を知っていることが「頭がいい」ことだったり褒められることなのでしょうか。また、この程度の仕組知らないことが「ケンカの原因」になってしまってはあまりに不幸ではないでしょうか。
この先、学校では「ふだん使わなそうなこと」ばかりやります。
ここでどうして「時計は自分にとって当たり前」になったかを考えてみましょう。あるいは逆に「子どもにとって当たり前になっていない理由」を想像してみましょう。
自分がそれを身につけたプロセスを分析し、子どもが身につけられるように導いていく。そうして一つずつ問題を解決していく。
この問題に対して自分は不正解ばっかりだしていないか。
ずっと解決されていない課題になっていないか。
与えられた宿題ではなく自分なりの問題を解決できなくちゃ意味ないんではないですよね。どうして自分の問題を解決できないんだろう。そんな自分たちは学校で、どんな能力を自分は伸ばしてきたのでしょうか?
ここまで考えを進めると、宿題云々という制度的な問題というより「学ぶ」ということを軽視してきた文化にまず気づかされると思います。
宿題を学ぶ機会に変え、目的を整理する力、問題解決能力を養うトレーニングとして宿題を位置付けたいです。日々のわからないやできないを、少しでもましな状態に改善する。「できない」原因を探り、ほんのちょっとでも「できる」に変えていく。そこから学びを得て、自分が成長した喜びを味わう。
宿題は終わらせるではない。宿題はやるだけのものではない。
宿題と組み合わせる動詞は、「やる」や「終わらす」ではなく「学ぶ」や「味わう」でありたいです。
宿題や学校の課題をきっかけに、親子ともども成長できると素晴らしいと思いますし、この問いかけに答えることこそが、一人一人の親や塾の先生に出された宿題だと思います。
009に続く
◎001~010
001『鳥の種類は書くべきか? 小学生への文章指導で注意すること(1)』
002『文章指導を丸投げしない 小学生への文章指導で注意すること(2)』
003『保健室よりも音楽室』
004『ぴったりの塾を探すのではなく、ぴったりの親になろう――オーダーメイドの服みたい 小学生への文章指導で注意すること(3)』
005『ためらわないという点で平等』
006 『暴力を受けていても塾をやめなかった』
007『白いパズルから学んだこと』
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