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過去。


これをつぶやいたのは、ほぼ2ヶ月前だ。


そもそもがモノを捨てられないたちで整理整頓も得意とは言えない。


歴代のスマホ・ガラケーに埋もれた過去の写真も動画も着メロも(着メロ!!!)着うたも(着うた!!!)メールもその機種を選んだ気持ちも、ぜーんぶまるごと保存しておきたい。そう思ってとっておいた。
データだけ別に保存して本体は処分、という発想にはならず、本体の色とかフォルムとか全部ひっくるめてとっておきたかった。

のわりに、随分とほったらかしでほぼ手をつけてない。捨てられない人の典型だ。


そもそもなぜ過去のあれこれをそこまで保管しておきたいんだろ?

大事に保管し続けてきたその思い出たちを一気に見返してみてやろう。

そう思って可能な限り起動させてみた。

起動できたのとできなかったのと半々くらい。
起動しても数分でおちちゃったりもあって、確認できたデータはわずかだった。

それでも、当時仲良くしてた人とのムズムズするようなメールのやりとりとか、相手によって設定を変えてた着信音とか、それを起動させるまでは思い出すこともなかった過去が、やっぱりよみがえる。

いいこともやなことも傷つけただろうことも傷つけられたことも思い出さなくてもよかったかもしれないことも、ぶわっと。


これって、私がこのケータイたちを保管してた目的だったっけ?


よみがえってきたあれやこれやは、今回はよみがえらなかったその他のあれやこれやと、何が違うんだろ。

よみがえらせるというのは、思い出すというのは、濃度があるとして100%ではないにせよ、追体験することだ。いいことばかりではなくつらいことも。

今の私を形作っているこれまでの私の経験・歴史のほんの一部を、今、追体験する意味は?

思い出せなくても、追体験しなくても、今の私をつくってる一部なことは変わらないぞ。

それはケータイに限らない。
私が捨てられずにとってるものって

歴代の手帳

CD
学生時代の教科書の一部
写真

いや、まじでなんで捨てられないんだろ。

手帳なんてそれこそ、やなこともたんまり封印されてそうなのに。

ただ、手帳自体はわりと見返す頻度が高くて、そのたびにやなことも思い出したりするけど、後味の悪さみたいなものは今回ケータイたちを再起動させたときのほうが生々しくてしんどかった。

この差って、なに?

手帳に残ってる筆跡とか選んだペンのインク色とか、それこそ生々しくてよさそうなのに、ケータイからよみがえった記憶の方が、痛くて鋭いかんじ。

それほど、ケータイの存在が私に深く濃く(手帳よりも!)関わる特別なものだっていうことなのかな。

よし。
じゃあいっそ、個人データ的なモノを復元できない状態にして、これらの歴代ケータイたち、ぜーんぶ処分しよ。これを機に。

あ、でも、どこの部分をどう処理したらデータ見れなくなるんだろう?とりあえず、取り外せる限りのカード的な、チップ的なものははずしてしまったけど、それだけでいいのかわかんないやどうしよう。

このバッテリーって、劣化したら電気なくなってても発火したりとか危険とかないのかな。こわいな。



いろんなことを考えた。

考えた結果、

結局いまだに捨てられないまま。

捨てられないのも、私なんだからもうこれは、しばらく捨てなくていい気がしてきた。

せっかくなので歴代ケータイのその姿カタチを気まぐれにつぶやいていこうかと思いついてしまった。

これは、処分できない歴代ケータイに端を発してぐるぐる考えたことをつらつらと綴ったメモ。

後日。
歴代ケータイの写真アップしていきます。


ちなみに。

当時、友達にも好きな人にも、その人の誕生日におめでとうメッセージに添えて贈っていた曲があって、その曲を歴代ケータイの中から久しぶり聴いてやっぱりいいなと思ったのでその曲を最後に紹介。


当時も大好きな曲だったけど、ほんと、素敵な曲。大好き。

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