レレレのおじさん
レレレのおじさん の モデルと言われる
【 チューラ・パンタカ 】(周梨槃特)の物語。
『 生来の愚鈍 』とされた男が、
わずか1本のホウキをもって、
悟りに至った物語り。
むかし、むかし、王舎城と言う町の長者の娘が、
召し使いと恋をしてしまいました。
戒律の厳しい その国では、
二人の恋は、許されるはずも有りません。
そのため、二人は 駆け落ちし、
やがて産まれたのが、
マーハ と チューラ の兄弟でした。
兄弟は、とても仲良く
弟思いで 面倒見のよい兄のマーハに、
いつも まとわりついて離れぬ弟のチューラ、
二人は、すくすくと成長して行きました。
しかし、
兄のマーハが、非常に聡明だったのに対し、
弟のチューラは、
何かにつけて愚鈍だったので、
その行く末は、とても案じられるのでした。
ある日、
お釈迦様の説法を聴聞した兄のマーハは、
たいへん感動し、出家をしました。
そして『 弟にも真理を伝えたい』と考え、
そばに呼び寄せることにしました。
弟のチューラは『 出家とは何か 』さえ
理解していませんでしたが、
兄を信頼し、素直に兄の言う通りに従いました
手始めに兄のマーハは、
真理をわかりやすく要約した次の偈(げ)を
弟のチューラに教えました。
しかし、弟のチューラは、この四行の偈(げ)を
なかなか暗記する事が出来ませんでした。
兄のマーハは一字一句、
噛んで含めるように唱えて聞かせ、
弟のチューラも
一生懸命に繰り返すのですが、
少しも 頭に残らないのです。
決して努力が足りなかったわけでありません。
近くで放牧していた牛飼いが、いつの間にか、
この偈(げ)を覚えてしまったことを知ると、
牛飼いの口ずさむ偈(げ)を聞 いて、
自分も覚えようとさえしました。
それでも全く成果はなく、
仲間の僧侶達からは、
『 マーハ・パンタカの弟は、
なんて馬鹿なんだろう』と、
チューラ・パンタカを見下し、
次第にぞんざいに扱うようになりました。
数ヶ月が経ち、とうとう兄は、
『 弟を、ここにおくことで、
こんなに ひどい思いをさせてしまうのか 』
と見ていられずに、
弟のチューラに、家に帰るように諭しました。
チューラ・パンタカは、
ひっそりと精舎を出ようとしましたが、
『 なんで、僕だけ出来ないんだろう…。』と
思うと、
情けなくて涙が止めどなく流れ落ち、
ついには、
門前で声を上げて泣き出してしまいました。
その時、チューラの手を取り、
『 チューラ・パンタカよ、泣くことはない 』
そう言って、
再び門の中へ導いて下さったのは、
他でもないお釈迦様でした。
あまりの事に、しばらく茫然としていた
チューラでしたが、
『 私は愚かなので、
ここに居ては、いけないのです』と
言葉を しぼり出しました。
するとお釈迦様は、
『 自分を愚かだと知っている者は、
決して愚かではない。
自分を賢いと 思っている者こそが、
本当の愚か者なのだ 』と仰(おお)せになり、
チューラに1本の箒(ほうき)を
お与えになりました。
『 汝(なんじ)には、
もっと簡単な偈(げ)を教えよう 』
『 塵(ちり)を払(はら)わん、
垢(あか)を除(のぞ)かん 』と唱えつつ、
毎日、怠(おこた)ることなく、
箒(ほうき)で掃除を行いなさい 』
『 はい!世尊 ♪』
『 塵を払わん、垢を除かん
塵を払わん、垢を除かん 』
この日から、
チューラの新たな修行の日々が始まりました。
チューラは、お釈迦様の言葉通り、
『 塵を払わん、垢を除かん 』と、
くる日も、来る日も、懸命に掃除をしました。
僧侶の中には、聞こえよがしに、
『修行ができないから、掃除をしているのだ』
と嘲笑する者もいましたが、
チューラは、意に介しません。
ただひたすらに、お釈迦様に教わった通りに
掃除を続けました。
すると、ほどなくして箒(ほうき)は、
薄汚くなり、さらには摩(す)り切れて、
短くなっていきました。
初めはきれいだった箒(ほうき)が、
よごれを掃(は)き清める為の箒(ほうき)が、
次第に汚れていく様を見て、
チューラは、ふと思いました。
『 床や 机、手や 体、
どんな物も時が経てば、汚れてしまう。
形の有るものは、すべて朽ちてゆく。
汚れは、どうしたら落ちるのだろう?』
お釈迦様は、チューラの気づきを察知され、
次のように説かれました。
『 心を汚すものは、
貪欲・瞋恚(しんに)・愚痴と言う
三毒の煩悩 』である。
凡夫は、三毒によって様々な悪業を造り、
その報(むく)いとして苦を受けるのだ。
三毒から離れる事が、
すなわち心の汚れを除くことである 』
貧欲とは、執着して貧り求めること。
瞋恚(しんに)とは、怒り憎(にくし)むこと。
愚痴とは、真理に対して無知で愚かなこと。
この三毒の煩悩によって凡夫は意を汚し、
さらには身や口でも悪を行い、
その報いを受けて、
自ら苦しみの世界へと堕ちていきます。
兄のマーハ・パンタカ尊者が
教えた偈文(げぶん)は、
その理(ことわり)を説いていたのです。
一が分かれば全てが解けると言いますが、
その後、チューラ・パンタカ尊者は、
心の隅に溜まった三毒を取り除き、
ついには、悟りに至りました。
『 生来の愚鈍 』と言われたチューラは、
さらに精進し、雄弁に真理を説くようになり、
人々を驚かせたとのことです。
多くの優秀な頭脳を誇る佛弟子達が、
懸命に知恵を磨いても達せられなかった
悟りの境地に
チューラが至れたのは、何故でしょう?
お釈迦様は、
チューラ・パンタカの悟りを疑う者達に、
『 悟りを得るということは、
決して『たくさん覚える』と言う事ではない。
わずかな事でも、
徹底して行う事が大切なのだ 』
とお論しになったと言います。
この『 徹底 』が非常に難しいのです。
チューラ・パンタカにそれが出来たのは、
自分の至らなさを知っていた所以、
『 自分が 』という我を入れず、
素直に師の仰せを実践出来たからでは
ないでしょうか。
なまじ経験や知識がある者は、
素直に行動しているつもりでも、
ややもすれば『 これで十分だろう 』
『 こうした方がいい 』などと
我見(がけん)を挟み、
結果、本来の着地点と異なってしまうことが、
多々あります。
頭で考えるから、頭で迷うのです。
聖徳太子が、念佛は、情に在りて理にあらず。
と説かれているように、
物事は、頭ではなく、心で受けとめる事が、
たいせつではないでしょうか。