どちらが生きづらいんだろう?
わたしは保育所を訪問して、
先生たちが「気になる」子どもの行動を観察し
関わり方のアドバイスなどをする仕事をしている。
その巡回相談をしていて思うのは、
多くの子どもは適応能力が非常に高い
ということだ。
先生がどんなことに対して「いけないよ」と言い
どんなことなら「やっても良い」とするのかを
一歳や二歳の本当に小さい頃からよくわかっている。
そして、ちゃんと求められている通りに
行動しようとする(本当にすごいことだ)。
だからこそ、
先生が求めている通りに振舞わない子は
とても目立つ。
・みんな静かに座っている場面で走り回る子
・遊びをやめたくなくてひっくり返って暴れる子
・白飯しか食べない子
・他の子が使っているおもちゃを奪い取る子
・順番が待てなくて大泣きする子
そうした行動は、多くの先生を悩ませている。
でも「問題行動」とされている行動の背景には
実は子どもらしい至極真っ当な欲求がある。
「もっと遊びたい」
「走り回りたい」
「つまんない、やめたい」
「好きなものだけ食べたい」
「おもちゃを独り占めしたい」
「順番なんか、待ちたくない」
「今すぐやりたい」
そうした欲求をもつことは、
何も悪いことじゃない。
ただもちろん、集団で活動する以上は
自分の欲求通りにすべてがいくわけではないから
思い通りにいかなくて暴れたり泣いたりする。
発達障害や「気になる子」と呼ばれる子どもの
多くは、自分の欲求にとても正直だ。
「やりたいことを、やりたい」
「やりたくないことは、やりたくない」
「自分の思い通りにしたい」
自分に嘘はつかない。
自分の本心を、ごまかしたりはしない。
そういうありのままを生きる子どもに、
しばしば大人は手を焼く。
でも、すべて大人の言いなりになることが
良いことではない。
なのに、大人の要求をよく理解して
その通りに振る舞う子どもを
しばしば大人は「良い子」と呼ぶ。
わがまま言うことをやめて
早々に大人の言う通りに振る舞うようになる子と、
求められていることに対して
全身を使って「それはイヤだ」と訴える子と、
どちらが健全なんだろう?
どちらが自分を大事にしているんだろう?
どちらが幸せなんだろう?
そう考え始めると、
どちらも生きづらいのではないか
という気がしてくる。
とある精神科の診療所について書かれた本に
こんなことが書いてあった。
"健常者には「世界」とか「普通」っていう
目に見えない問題があって、
みんなと同じであればとりあえずいいというか、
そういう風に見えるようにする演技は大変上手です。
だけども、ほんとに内面まで、生き方まで
上手な人なんてそういるんだろうかと思うと、
そうでもないなぁって、
それを見せられることがしばしばあります。
人間としての弱さや問題を抱えている事は皆同じ
でも、自分を語れる者と、語ることのできない者の
間には乖離がある。
自分をさらけ出す人々と、
さらけ出せずに仮面を被り
鎧に身を固めている人々。
診療所のメンバー(患者)のささやきが聞こえる
「健常者って、大変らしいぞ」
そりゃ仮面被って鎧をつけて、
自分の思いも語れないんじゃ
生きていくのは大変だ。"
ー斉藤道雄著「治したくない」より引用(一部改変)
「みんなと同じように振る舞うこと」
「何も問題がないように振る舞うこと」
そんな演技が上手になればなるほど、
自分の本心を見失っていってしまうんじゃないか?
本当に問題が起きた時に、なりふり構わず
「助けて」と言えなくなってしまうんじゃないか?
巡回相談をしていると、
先生たちは他の子と違うように振る舞う子を
「気になる」と言うことが多い。
でも私は、何も問題ないような顔をして
先生の言う通り、当たり前のように
振る舞う子どもたちも、同じくらい気になる。
そんなに早く「大人みたい」に
ならなくていいのにと、思ってしまう。
小さい子だって、大人になったって、
そんなに"良い子"じゃなくていいんじゃないかな。
どんな人も、ちょっとくらいのわがままを
言ったっていい。
日本は、調和や協調性を重んじる風潮があって
波風立たないようにと、振る舞う人も多い。
でも本当は、
もっとわがままに生きたいって
心の底では思ってるんじゃないかな?
自分の本音に蓋をすればするほど、
誰かがわがまま言ったり、
自分勝手に振る舞うのを見て
許せなくなってしまうと思う。
でもこれからは、
子どもたちの少しのわがままを
受け止められる先生、園、学校が
増えていって欲しい。
大人も子どももみんなが
少しずつわがままを言って、
お互いにそれを許容できる
そんな社会になっていったらいいな。
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