弥生時代の九州(肥の国・筑紫の国)
古代の九州は大陸との窓口でした。
特に弥生時代の九州の勢力図がどのようなものであったのかを考察することは、その後の日本史を辿る上でも欠かせません。
まずは、手掛かりとなる北部九州、肥の国・筑紫の国の成り立ちから見ていきましょう。
《現代語訳》(イザナギは)次に筑紫の島を産みました。この島も、からだ一つに4つの顔があり、顔ごとに名前がありました。筑紫の国は白日別といい、豊の国は豊日別といい、肥の国は建日向日豊久士比泥別といい、熊襲の国は建日別といいます。
古事記の「国生み」の一節に、古代の九州には「筑」「豊」「肥」「熊襲」の4つのグループがあったと記されています。
それぞれがどの地域を指すのか、古事記には具体的なことは記されていませんが、江戸時代まで続いた九州の国名によっておおよその見当をつけることができます。
・筑紫の国(筑前・筑後) 福岡県西部
・肥の国(肥前・肥後) 長崎県・熊本県
・豊の国(豊前・豊後) 福岡県東部・大分県
・熊襲の国(上記以外 日向・大隅・薩摩) 宮崎県・鹿児島県
西暦712年に成立した古事記が、なぜこのようなグループ分けをしたのか、その理由は弥生時代のお墓にヒントがあります。
肥の国の墓制・支石墓(縄文時代晩期~弥生時代前期)
お墓とは、その民族の死生観であり宗教観でもあります。
弥生時代の人々がどのような墓制を営んでいたのかがわかれば、その土地の人々の流れが見えてきます。
肥の国(長崎県・熊本県)のエリアでは縄文時代晩期から弥生時代前期(~紀元前2世紀)ごろまで支石墓と呼ばれるお墓がつくられていました。
支石墓は石のお墓の一種でドルメンとも呼ばれ、基礎となる支石を数個、埋葬地を囲うように並べ、その上に大きな天井石を載せる形態をとっています。
世界各地で作られていますが、東アジアでは特に、山東半島、朝鮮半島南部に多く分布しており、九州においては福岡県4群・佐賀県8群・長崎県12群・熊本県4群・鹿児島県1群が確認されています。
上の図は「風観岳支石墓群調査報告書」からの引用ですが、この他に、平畠支石墓(熊本県熊本市北区植木町田底)、永田支石墓(熊本県合志市)なども見つかっており、支石墓の分布範囲は長崎県と熊本県に集中しています。これは旧国名でいうところの肥前と肥後にあたり、
弥生時代前期ごろ「肥の国」には支石墓を墓制とする民族がいたことになります。
筑紫の国の墓制・甕棺墓(弥生時代前期~中期)
甕棺墓は、甕・壺を棺とする弥生時代前期~中期の北部九州で非常に顕著に見られる墓です。
甕棺墓は縄文時代から一部に見られていましたが、甕棺は小型であり、その多くは乳幼児の葬送用であったと考えられています。弥生時代前期の北部九州において、成人埋葬用に大型の甕棺が製造され始め、甕棺墓が定着し始めます。そして弥生時代中期に甕棺墓は最盛期を迎えます。主として糸島市付近、福岡市付近、肥の国の領域にあたる佐賀県神埼郡付近などに分布していました。しかし弥生時代後期から衰退し、甕棺墓は末期にはほとんど見られなくなります。
上図「九州の甕棺」は九州の大型甕棺墓の最大版図を記したものです。その分布は筑紫の国だけではなく、肥の国の領域まで甕棺墓の文化が浸透していきました。なかには支石墓の直下に甕棺を埋葬するハイブリッドな形態も見られ、単純な武力制圧による浸透ではなかったようです。
弥生時代中期には大型甕棺墓という墓制文化を共有する勢力が筑紫の国と肥の国にいたことがわかります。
そして甕棺墓の分布エリアの特徴として、福岡県東部エリアである宗像市よりも東、遠賀川の中・下流域からは全く出土しないこと。
また南限はほぼ熊本平野までとなっており、この領域外に甕棺墓文化圏とは異なる勢力「豊」および「熊襲」がいたのではないかと推測できます。
まとめ
・肥の国とは、支石墓文化にルーツをもつ人々のあつまり
・筑紫の国とは、甕棺墓文化にルーツをもつ人々のあつまり
・弥生時代中期に両者は甕棺墓文化を通じて共同体を形成
・その領域外に文化の異なる豊の国、熊襲の国があった
以上となります。
次回は現在の福岡県東部および大分県の領域となる「豊の国」について考察してみましょう。
余談
なお、甕棺墓は一部薩摩半島にも飛び地で存在しており、これは『古事記』中巻の「神武記」には次のような一文があります。
《現代語訳》(神武天皇が)「日向」にいた頃、「阿多」の「小椅君」の妹で名を阿比良比売を娶り、生まれた子が、多芸志美美命、岐須美美命の2柱である。
こちらを彷彿とさせます。
筑紫国の墓制を熊襲国に持ち込んでいるということは、両者の間で婚姻関係が結ばれていたのかもしれません。
また「阿多」という地名が残る薩摩国阿多郡(日置市・南さつま市の一部)と鹿児島県での甕棺墓発掘地点が重なることも興味深いことです。