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神は細部に宿り給う

【大分県】編

 今から行く旅は……何というか……フィクション(創作)とファクト(事実)の境界を覗いてしまうことになります。創作の細部を日本の原風景と共に観ていく、美しくも刺激的な旅路になる予感がしてきます。真実の文学旅行をしてみたい方は、ぜひ先へお進みください。


はじめに


 文学でリアルに日本一周、第2回は『星がひとつほしいとの祈り』原田マハ(実業之日本社)です。同書は、7つの短編がいずれも、舞台設定を地方に置き、豊かな方言が随所に表現されています。愛媛県松山市(道後温泉)、秋田県白神山地、新潟県佐渡島、岐阜県岐阜市(長良川)、高知県高知市(四万十川)……。読んでいると旅情をかきたてられまくり、これはもう現地へ飛ばないわけにはいきませんでした。今回は、そのなかでも「夜明けまで」の旅になります。

 ①大分県を旅したくなる文学ベスト5

『九年前の祈り』小野正嗣 第152回芥川賞受賞
『波千鳥』川端康成(未完)
『白蓮れんれん』林真理子
『陸行水行』松本清張
『僕が愛したすべての君へ』乙野四方字

順不同 NPO法人 文学旅行

 ②作品:『星がひとつほしいとの祈り』収録「夜明けまで」 原田マハ

──セネガルのNGOで働く堂本ひかるは、母であり大女優の堂本あかりの死に際し、芸能事務所の社長から一枚のDVDを手渡される。そのディスクには「遺骨をひとかけら、夜明けまで連れて帰って欲しい」と話す母がいた。娘は、今まで知ろうとしなかった、母親の真実と向き合う旅に出る。大分県日田市のJR夜明よあけ駅と、小鹿田焼おんたやきの里を舞台にする短編。

収録されている短編はどれも旅情をかき立てる

 ③旅色・連載との繋がり

 旅色 連載プラン 
『親子の絆を再確認する母娘旅』

 さあ、想像力の旅へ。
 親子の絆を再確認する物語へ。
 私たちがアテンドいたします (^_^)

(↓本文は「だである調」になります)

作意と作為


 緑深い山間やまあいを抜けてゆく。サイドウインドーを開け放ち、外気を入れる。車内が爽やかな色に染まっていく。緩やかな上り坂を進むと、やがて小さな集落に出た。
 民窯みんよう・小鹿田焼の里は、新緑の季節だったこともあって、鮮やかなグリーンと陶器の土色とが息を飲むようなコントラストをなしていた。

 日田へ来る前、福岡で陶器について予習をした。親友・中道くんから小鹿田焼について教えてもらったのである。この中道くんについては、紹介順序があべこべになってしまった。いかん、いかん。。。事の次第をざっくり説明しよう。

 それは、出版社を辞めて出発した日本一周の文学旅行の道中、福岡県糸島でのことだった。玄界灘を望む海岸で、学生時代の親友・中道くんと再会したのである。なんと劇的な!(^0^) その再会と彼の人柄については糸島編で描くので、今はとりあえず読み飛ばしてください。とにかく、九州をめぐる文学旅行の拠点として、中道くんのお宅に居候することができたのだった。

 さて、その中道くんは、三浦しをん『まほろ駅前多田便利軒』を地でゆく稼業をしているのだった。表向きには骨董商を名乗ることもある。つまり、古美術・陶器に詳しい男なんである。彼によると、小鹿田焼は「弟だ」と言うんである。

「筑前の小石原焼こいしわらやきから分派したばってん」

 小鹿田焼は、福岡県の南部・朝倉郡にある小石原焼を兄に持つ弟だ、と言うのだ。小鹿田焼の前に、まず小石原焼があるらしい。ちょっとややこしい。現地で配布されている小鹿田焼の解説書には、その発祥について、こうある。

「小石原焼の陶工・柳瀬三右衛門を招き、大鶴村の黒木十兵衛によって開窯された李朝系の登り窯であります。」

 小石原焼は17世紀の後半に筑前の国で隆盛した。18世紀に入った江戸時代中期に、その小石原焼の陶工を天領・日田に招き入れ、小鹿田焼は興きた。
 解説書には、陶工を招いたのは誰か、主語が書かれていない。文脈からすると、黒木十兵衛は開窯した人物と解される。
 陶工を呼び寄せたのは、いったい誰か。時代背景を考えれば、天領・日田のお代官様だろう……か。その道の泰斗なら知っているのかもしれないが……。
 実は、現地へ入った際、その点を窯元の人に訊いてみたのだった。すると、別段、気にもとめていない様子だった。──そんな昔のこと、どうでもいいじゃないか── そうした鷹揚な感じは、どこか人間の器の大きさも伝わってきて、むしろ癒されたのである。

 まあ、細かいことはおくとして、上記のような知識を、中道くんは郷里の長崎弁を交えて教えてくれたのである。そして、台所の戸棚をゴソゴソし、「おもしろかやろ」と言って、一枚の皿を出してきたのだった。

「飛びかんなじゃ」

 見ると、皿には黒い雨粒のような模様が点々とある。それは小鹿田焼の特徴だ、という。
「触ってもいいか?」
 指で触ると、肌はツルツルだった。
 ちょっとした違和感があった。
「……判ったか」と中道くんは言った。「そいは偽物ばい。作為さくいだらけじゃ。本物は、鉋が当たったところに凹みができる」
 中道くんは、もう一つ皿を出してきた。
 その皿は、触ると雨粒のところがくぼんでいた。表面に刷毛で釉薬(ゆうやく)がサァーと塗られていて、陶器の上に風雨が吹き抜けるような、何とも得がたい景色である。
 
 小鹿田焼の代表的な技法は、飛び鉋、刷毛目はけめ櫛描くしがき、打ち掛け・流し、だという。そのうち、飛び鉋は、ロクロで回転させた器に、程良くしなる細長い金属製のヘラ(=鉋)を当て、陶土をひっかくようにして模様をつける技法である。ひっかくときにヘラの先が飛ぶので「飛び鉋」と呼ぶのだろう。この技法を施すと、雨粒のような痕が器につき、幾何学的な模様を作る。鉋の先を等間隔に当てる技術は、素人目にも難しさが想像できる。

 小鹿田焼は、開窯以来、三百有余年にわたってその技法を守り続けていたが、近年まで埋もれた存在だった。その作調が再評価されたのは、昭和6年(1931年)に民芸運動の指導者・柳宗悦が来山したことによる。昭和29年、30年には、世界的に著名なイギリスの陶芸家・バーナード・リーチが柳の招きにより一ヵ月ほど逗留して作陶を行うなど、その「用の美」が現代に甦る契機をつくった。

 訪れたときは10軒の窯元が健在だった。が、その後、残念なことに1軒が作陶を終え、2023年現在、9窯がその火を守っている。すべての窯元(小鹿田焼技術保存会)が国の重要無形文化財保持団体の指定を受け、伝統の作陶を今につないでいるのだった──


 集落の入口に駐車場があった。クルマを停めて上り坂を歩く。
 小川のせせらぎが耳に何とも心地良い。その鼓膜を、時折、ガタン、ドスンという、地面を大きなもので叩くような、鈍い音が震わせる。はじめ何かわからなかったが、それが〝唐臼からうす〟の音だと気づくのに、それほど時間は要しなかった。やがて、その自動機械が見事な姿を現したからだ。

 唐臼とは、小川の流れを利用し、テコの原理で杵を臼の中の土に振り下ろす、万葉の頃からある道具である。まるで巨大な鹿ししおどしだ。この仕組みで土を粉にして、陶土を作るのである。唐臼の刻む、ゆったりとした音のリズムは、旅人を現代社会から古代日本の原風景へ幽体離脱させる。それは魔法の音とリズムだった。

唐臼


窯元で品性下劣を晒してしまう😭


 里の入口に「山のそば茶屋」がある。眼下に清流が流れ、唐臼の音が絶妙な薬味となる。まるでお伽噺のような風情の中で、ぜひとも田舎蕎麦をいただきたいところだが、散策後にすべし。ここでの食事については、その感動を旅色連載でご紹介しているので、画像を載せておこう。

田舎蕎麦、かくあるべし

「山のそば茶屋」を過ぎると、登り窯が見えてきた。

共同で使う登り窯

 立派である。
 詳しい原理は省くが、山の斜面を利用して窯の中で熱を循環させ、焼成の具合を一定にするのだという。目の前にある登り窯は、5軒の窯元が利用する共同窯だ。

「焼き方は、みな同じだからね」

 そう言うのは、共同窯のすぐそばに立地する黒木富雄窯の当主、その人だった。富雄さんは窯元の6代目として婿養子に入り、小鹿田焼の技を習得した陶工である。アポイントはなく作業中のところを突然お邪魔するかたちだったが、理由を話すと嫌な顔ひとつせず、立ち話に応じてくれた。

 ──小鹿田焼の主は、どうして小石原からここへ移ったんですかね。
「う〜ん。もう300年も前のことだからねえ。土が良かったんじゃないかなぁ(笑)」

 どこか人間の器の大きさに触れた、と前述したのは、このときの富雄さんの印象からである。鷹揚で自分のことに頓着しない良さ、とも感じた。気を良くしてしまい、調子に乗って、こんな無理をお願いしてしまった。

作陶の様子

 ──飛び鉋をするところを見てみたいのですが……。
「……あれは」と、富雄さんは一拍おいた。「……まだなんだよ。作業にはタイミングがあってね。あれは土が乾いた時にやるもんだから、残念だけど今はできないねぇ」

 図々しいお願いをしたものである。おいそれとできるわけがないよなぁ、と自分でも思った。そして、いったい何を思ったか、続いてこんな下品なことを訊いてしまったのである。

 ──景気はどうですか? (皿山の魅力に高揚し、自分を見失っていました。いくら取材の名分があるとはいえ、ずいぶんな訊き方だと、今さらながら反省しています)

「あんまりだなぁ。数が作れないからねぇ」

 気さくに応えてくれたのでよかったが、今考えてもぞっとする。周囲には女子旅の方々が数人いて、外国人観光客もいる。きっと〝アホが来てる〟と思われたに違いない。。。

 小鹿田焼は数を作れない。
 いや、作らない、のかもしれない。
 そう言うのには、わけがある。

 小鹿田焼は、年に一度、すべての窯元が共同して、その年に使う分だけの土を採土場から採る。それが習わしなのである。そうして採取した土を、唐臼で陶土にして使うわけだが、原材料の量が決まった時点で、おのずと生産性に上限ができる。日本の陶器産地では、機械化され、またその都度、土を採取するところも少なくない。だが、ここ小鹿田焼に、そうした考えはみじんもない。そこにあるのは、伝統的な生産技術と習わしを守っていく気概である。そもそもが、大量生産とは真逆の場所に立っている。

軒先では焼成される前の器が並べられていた

 富雄さんが救いの手を出してくれた。 
「それでも、幸い、うちには跡継ぎがおるからね」

 ……数は作れないが、まだまだ続くよ。
 そう言いたそうだった。

 工房の中を覗くと、若者が一人、ロクロを使っている。昌伸さんというお名前だそうだ。

 小鹿田焼が数を作れないのには、もうひとつのわけがある。小鹿田焼はその技術の伝承を一子相伝でつないできたのだった。つまり、窯元では、他に弟子や職人をとることをしない。だいたいこの皿山に、大量生産という近代に生まれた概念は存在しない。はなから数を多く作るつもりはないのである。併し、そうかといって、大昔のしきたりのまま何もしなければ伝承技術が消えてしまいかねない。国の無形文化財に認定された理由の大きな部分がそこにあるという。

フィクションとファクト


 やばいなぁ〜、すごいなぁ〜。
 親子の絆を描く小説にとって最高の舞台だなぁ。
 そんな思いで窯元を後にしようとしたときだった。

 あれ?
 とすると、本作は成立しなくなるのでは……?

 本作は、主人公・堂本ひかるが小鹿田焼の里に案内されて、窯元を継いだ男性から母親の遺言のわけを知らされる。その時、窯元の男性は、自分の来歴を次のように説明するのだった。
 以下、引用する。

「(前略)ここん窯をやりよったじっちゃんが亡くなって、跡継ぎがおらんようになって、おたいが継ぎました。まあ名前だけ継いで、実技は先輩職人に習っちょるとこやけんど」

 実技は先輩職人に習っている──この記述を、どう理解すればいいのだろう。小鹿田焼は一子相伝で家族だけに伝えられてゆく。弟子はなく、職人もいない。先輩職人とは、いったい誰なのか。

 上の記述は、物語のプロットとしても重要なところで、母親の遺言の謎に関わる部分なのだ。

 ──事実と創作の彼岸を見てしまったか。。。

 実在する場所や事物を記述する場合、その事物に制約を受けながら創作はなされるものだろうと思う。とはいえ、時代小説のことを考えれば、どこまで創作が許されるのか、読者の側にモヤモヤした気持ちが起きるケースもある。ファンタジーと大衆文学との垣根など、もはやなきに等しい。SFとなれば、なおのこと。併し、併し、である。。。

 併し、国重要無形文化財であることを除いても、ここ小鹿田焼の里は奇跡を見るような場所である。本作は、物語として、そしてテーマの描き方として、果たして真実をうがつものになっているだろうか。。。

 工房の中では、黒木窯の7代目・昌伸さんが泥だらけになりながら、黙々と器作りをしている。質朴と評される原始的で土着的な作陶は、併しその手を通じて天上の意思が「用の美」の極致を現出せしめているとしか思えない。この奇跡には、魔法の呪文などなく、ただ崇高さがあるだけだった。

 神は細部に宿りたもう。

幾何学的な模様が美しい


亀の井別荘のジャム物語

  
 さて、一子相伝である。
 大分県の旅では、もうひとつ、一子相伝とまでは言わないけれど、親子による事業継承に成功している逸品にめぐりあった。それも人気の高い由布院温泉で、である。

 由布院温泉には、今の繁栄に至る道を築いた旅館がある。「亀の井別荘」がそれだ。ここからは、この旅館にまつわる物語を旅しよう。

亀の井別荘にある、天井桟敷という名のカフェ

 亀の井別荘には、天井桟敷という名の、実に心地良いカフェがある。江戸時代の造り酒屋を移築して軀体とし、酒樽の底をテーブルにするなど手仕事のぬくもりを大切にしているカフェだ。

天井桟敷に来たら、歴史ある「モン・ユフ」をぜひ

 亀の井別荘は、今でこそ地産地消と言われるが、そんな言葉のなかった頃から、地元の振興にこだわり続けてきた。もちろん天井桟敷も同様で、地元の食材を使ったメニュー作りは「モン・ユフ」を代表に、いずれもが評判を呼んだ。地元の果物を使った手作りのジャム(コンフィチュール)も、そのひとつである。やがて名物になるそのジャムは、別荘ご主人の義妹による手作りだった。義妹は嫁いだ先でもジャム作りをずっと続けられ、現在は二代目となる渕野恵太さんご夫婦がそのジャム作りに加わり、商売を継承しているのだった。

由布院で手作りジャムを造り続ける「ことことや」の渕野恵太さんご夫婦。笑顔がいい

 由布院のメインストリートは、湯の坪街道になるだろう。観光の中心地として、道沿いにはスイーツショップや飲⾷店、土産店、ギャラリーなどが建ち並んでいるため、東京・原宿を想起する人もいるかもしれない。併し、どの店舗も江戸時代の長屋を思わせるような造りで、なかには飛騨高山の古民家を移築した小規模の複合施設もあって、景観に統一した思想を感じさせる。商店会が結束しているあかしだろう。
 写真を撮りながら歩いていると、その工房はあった。

「ことことや」

 素材を煮込む音。それがこのジャムを作る店の屋号だ。工場で大量生産するスプレッドではなく、素材の果実がそのまま生かされているプレサーブタイプである。今風にフランス語で、コンフィチュールと言ってもいいかもしれない。

 取材に来たことを告げると、渕野さんは店奥に向かって叫んだ。
「おかぁさーん! 来られたよ!」
 奥を通り越して屋外にいるらしい〝おかぁさーん〟が、ひょいと顔をのぞかせた。白い長靴と青い手袋の姿だった。果物を煮込んでいたのである。。。

 この逸品を知ったのは、日本一周の道中、広島でだった。世界中から〝これぞ!〟と思い定めたジャムを販売・提供する「駱駝カフェ」の若き店主・松浦直樹さんとひょうんなことから知り合い、教えてもらったのである。

「このジャムに惚れとるんですわぁ」

 松浦さんは、その味わいの良さをストレートに語るのだった。
 それまで外洋船で働いていた松浦さんは、寄港のたびに趣味で現地のジャムを食べまくっていた。そして、これは!と思った逸品と取引を結ぶことで開業した人なんである。いわば世界中のジャムを試食してきた人だった。その彼の舌をうならせたのである。

 由布院のジャムは、地産地消を飛び越えて、遠く離れた広島にもファンが存在することに、そしてそのファンがやっぱり大量販売するようなお店ではなかったところに、何というか清々すがすがしさに触れたような気がするのは、いけないことだろうか。インターネットでお取り寄せができる時代になっても。。。こうして人を介しての、ステマではない、本当の口コミに出合うと、もうそれだけで、心の凝った部分がほぐれていくようだった。

賑やかな湯の坪街道の画像はネットに氾濫しているが、脇道へ一歩入るとそこは……

 商売の継承には、いろいろある。政治家や医者、芸能人や俳優でも世襲が多くなった。げんなりするし、バカバカしくなることも少なくない。併し、世襲の中にも、地産地消で充足する、大きくなろうとする意思のない、けれど真実を大切にする、そうした理念を貫く商売には、どうやら本物が混ざっているようだ。亀の井別荘のご主人も、現在は、先代の中谷健太郎氏から中谷太郎氏に受け継がれている。中谷巳次郎から数えて四代目となり、すでに十余年が経つ。
 本物の地域活性化を教えられている気がした。

 お礼を伝え、お店をあとにする。

 近くを流れる大分川まで行ってみようと思った。
 観光客ひしめく湯の坪街道から一筋入ると、日常の空気と自然を感じることができる、そこは静かな川だった。
 欄干には樹木が使われていた。柱の部分に寄りかかり、清流をぼーっと眺める。はるか由布岳に洗われて来る流れは、浄水装置によって透明になる都会の川とは違い、どこかやわらかさをたたえていた。
 自然には作為がない。

 ふと、糸島での中道くんが思い起こされた。
 小鹿田焼を摸したプリント(印刷)焼成の食器を前に笑っている。
「そいは偽物ばい。作為だらけじゃ」
 その声が、手で触れるように甦ってきた。


 ※ 2023年現在、天井桟敷では地元・由布院の鞠智(くくち)さんの手作りコンフィチュールを提供するようになっています。


追記──編集者に恵まれないっ!


 本文は、ここでおしまいです。
 ですが、これで満足しないのが、note記事。『ごんぎつね』旅と同様、追記で事の真相に迫っていきましょう。

 旅好きの原田マハさんは、とりわけ小鹿田焼を気に入っているようで、『リーチ先生』という本をものしています。当然、取材をしているはずなのに、どうして前述のような、誤解を招く言葉の選択をしたのでしょうか。

〝じっちゃんが亡くなる直前に窯元に入った〟
 
 そう設定していれば、おそらく問題はなかったはず。

 要は、校正が甘かった……。
 正確に言えば、校正はしても、校閲するところまではできていなかった、ということでしょう。

 校正と校閲は、似ているようで、まったく違うものです。
 校正は、原稿と印刷されたものとを突き合わせて、正誤を確認すること。校閲とは、原稿との正誤だけでなく、その表現が合理的かどうか調べ、適否を確認していく作業なのです。

 分かりやすいように、ざっくりとした例を。
 縮少は誤字なので縮小に直すのが校正。その文脈から言葉遣いの適否を判断して、縮小を減少に修正するのが校閲です。

 担当編集者は、その作品の最初の読者としてチェックするだけでなく、校閲すべき点を洗い出すために、自分以外のなるべく多くの「目」を頼むことになります。書いた本人は気づかない、あるいは気づきようのない齟齬も、第三者の目を通すと、あっけなく発見されることが多いものです。担当編集者の目がしっかり機能しないと、すべてが台無しになることさえある、のです。

 ……実を言えば、小生もよくやらかしました、月刊誌編集者時代に。そして、今もまだ……。なので、他人のことを言う立場にはありません。むしろ、同業者として、その痛みを共有する気持ちでいたいのです。

 ミスを未然に防ぐため、大きな出版社には校閲部があります。とりわけ老舗になれば、何でも知っている、何でも調べてしまう、それこそ博覧強記の校閲部を持っているものです。

 ここで業界内で密かに流通する校閲の伝説を一つ。
 それは、ある人気作家の作品でした。その作品は直木賞をとるのですが、他社の校正者に「この時期の、この時間に、月は下弦になっていない」と指摘されてしまったというのです。

 まあ、今の時代、校正や校閲で検索すれば、関連するところに引っかかりますから、あえて匿名にする必要もないのかもしれません。ですが、このエピソードについては、いろいろ伏せておいたほうが良いでしょう。

 表だっては語られることのない、校閲の秘められた伝説は、老舗出版社ならば一つや二つ、いや百くらい、まったく普通にあるもの、なのかもしれません。この一件から、文学作品に月の表現が出てくれば、その時期の月齢を確認することが、校閲の標準仕事になったといいます。

 これほどまでに、フィクションであるはずの小説に「事実」の裏打ちを求めて、言葉の海へ潜ってゆく人たちがいるのです。文章による創作物は、そこまでしてはじめて、読む者の腹に落ちて来るものになる……のではないでしょうか。。。

T社の初版やらかしに落涙する


 次のやらかしは、いまや都市伝説クラスです。
 いやぁ〜、心苦しいですよ、本当に。こんな事例を紹介するなんて。意地悪だと思わないでください。すべては、編集者という職業の悲しみと痛みに寄り添いたいと思ってことです。口が裂けても、黒い笑いがこみ上げてくる、などとは。。。(^_^;)

 それは……あろうことか、実質的なデビュー作でのことです。そうです、映画にもなった『カフーを待ちわびて』です。ガッツリ恋愛小説です。しかも、しかも、ですね、その冒頭なんですよ。大切なことなので繰り返しますが、冒頭なんです。冒頭といえば、読者を惹きつけるために作者が全力を挙げる部分です。読者にとっては、その作品がおもしろそうか否かを判断する、1ページ目なんです。。。

 まどろっこしいことは抜きにしましょう。

 さあ、あなたは、この誤植(?)の意味がわかりますか。。。

 ①単行本の検証画像

単行本初版

 ②文庫版の検証画像

文庫版

 ああ。。。

 このケースも単純なケアレスミスだろうと思われます。物語の構造に影響するものではありません。ただし……もしも、これがケアレスミスではなく、恋愛対象となる登場人物のイケない性癖を暗示したものだったとすれば、物語は一変してしまう可能性だって……ないな、それは (^_^;)

 初版が出来上がってきたときの、担当編集者の気持ちを思うと……目頭が熱くなってきます。画像で分かるとおり、この部分は版を重ねた時に修正され、また文庫化もされているので、いまや幻になっています。幸いかな、幸いかな。

 併し、やっぱり、恵まれてないですよね、担当に。。。

それでも明けない夜はない


 話を転じましょう。。。
 日本一周の文学旅行では、豪雨の影響で訪れることができなかった夜明駅のことです。

 旅色の連載では、九州旅客鉄道株式会社(JR九州)からご協力をいただき、画像をお借りすることができました。おかげさまで、良いビジュアルでページを飾ることができました(その成果は前口上③のリンクから飛んで見てね☺️)。

 併し、枚数の制限もあって、掲載できなかった画像がありました。せっかくの機会ですので、ここでお披露目しようと思います。鉄ちゃんには、価値のある画像だと思います(画像提供・九州旅客鉄道株式会社=禁無断転載)。

 さあ、いってみよう ♪

夜明駅特別写真集

廃線直前に行われた最終列車の入線イベント風景①
廃線直前に行われた最終列車の入線イベント②
地元の方々による正月飾り


 前述のように、夜明駅を発着していた日田彦山線は、度重なる豪雨被害もあって、廃線となりました。併し! 2023年夏、BRTひこぼしライン(正式名称:日田彦山線BRT=バス高速輸送システム)として生まれ変わり、地域の路線は守られることに。。。

誤植をやらかして落ち込んでも、
明けない夜はないのです。


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