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切り株のひととき


 私は、疲れていたんだと思う。
 仕事帰り。さんざん会社に振り回されてようやく帰路についた私は、いつものようにバスに乗って家へ向かった。バス停から家までにはちょっと歩かなくてはいけない。疲れた体にちょっとダルいなぁなんて思っていたところ、そこにいたのだ。
 何かが。
 最初は、誰かがゴミか何か入れた袋を道端に置きっぱなしにしたんだと思っていた。だけど私はつい足を止めて数秒ソレを観察してしまったのだ。わずかに、ソレが動いた。
 ここで私は悲鳴をあげてダッシュで逃げる、ということを普通ならしていただろう。だが私は疲れていたのだ。こういうこともあるんだろうとあっさり受け入れていた。そしてなぜか私は、ソレに声を掛けていたのだ。
「何してるの?」
 私が声を掛けたことで、ソレはゆっくりと顔を? 上げた。もはや人間とも分からないソレは丸い顔をしていて、緑色の姿をしていたと思う。というのは私もはっきりとは言い切れないのだ。だってソイツ、うっすらと体が透けていたから。
 あ、マズイものを見ちゃったんだと私は思ったが、丸いソイツは気にする様子なくこう答えたのだ。
「僕、もう少しで死んじゃうんだ」
 それから俯くように顔が見えなくなっていき、私の頭は混乱状態だった。コイツは幽霊か何かの類ではないのか? コレは、何?
 だがこういう時、人間というものは興味が湧いてくるらしく、私は更にソイツとの会話を試みたのである。
「どうして死んじゃうの?」
 ソイツはすぐに答えた。
「僕が人間の作った道を壊して生えてきたからさ」
「え」
 私は愕然とした。どういうことか理解しようとした時には、ソイツはそこから少し動いて足元にあった切り株を見せてくれた。そういえばそこの空き家、最近別の人が住むようになって雑草だらけだった庭がだいぶ綺麗に整えられていた。その時、庭から飛び出したのかなんなのか、アスファルトを打ち破って生えていたなんかの木も切られたのだろう。いつも通っていた道なのに、この不思議な幻と喋るまで、すっかり忘れていた。
「そういえば君、どこかで見たことあるね」私が呆然としていると、不思議な幻くんが話し続けた。「ああ、そうだそうだ。君、小さかった頃よくこの道を通っていたでしょ」
「え……」
 私は一瞬考えた。そこにあった木、そんなに昔から生えていたっけ?
「うん、そうだよ。通学路だったからね」
 私は昔、この辺りの学校に通っていた。近くに祖父母宅があったから、そこから通っていたのだ。
「通学路だったのなら、どうして途中でここを通らなくなったの?」
 ドキリとした。その頃の私には色々あったのだ。
「……引っ越したの。大人の事情でね」
「そっか……」
 切り株の精霊は、そう言ってとても悲しそうな顔をした。他人の、しかも人間の私に共感してくれる精霊には、きっともう、これからも会えない。私は切り株を見つめた。
「貴方のことを助けたい」
 つい出た言葉だった。だけど私の一言で、精霊はパッと目を大きくさせた気がした。だけど最後にはまた俯いて、小さく呟いた。
「無理だよ。根っこの方から腐ってきているんだ」
「でも、なんとかしたら……」
 だけどもう、精霊は顔を上げなかった。
「いいんだ。最後に君と話せただけで、僕は嬉しいからね」
「そんなこと言わないでよ……私だって……」
 ふわっと消えた。私はハッと辺りを見回す。そこには誰もいない住宅街が広がっていて、とても静かだった。
 切り株へ視線を戻した。何か意味があるのか、切り株はいくつもの切り込みを入れられていて、確かに二度と生えてこないような気がした。私はどうしようもない虚無感に襲われて、しばらくそこから動けなかった。



 それからというものの、私はいつも、帰り道の切り株を気にしている。もう喋ったり動いたりしないんだけれども、いつかきっともしかしたら、と私はつい、数秒ソレの前に立ち止まってしまう。
 秋が深まってきて少し肌寒くなってきた。私はもう一度、切り株を振り向いた。
「……あ」
 切り株に、キノコが生えてきていた。

 おしまい

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