誰にも言えなかったトラウマ


辛過ぎる悲しさは、感情にもならずに、映像だけ脳裏にあって潜在意識に居座ってることがある。

感情として浮かび上がると苦しいから、きっと防衛本能として、感情と結びつく経路が断ち切られたのだろう。

私自信、自分の女性性への自己容認が凄く難しく、だいぶこじらせて生きてきたなぁーと思うけど

その根本原因が何かと問われれば、自分でも良くわからなかった。

ただただ女性としての自分に自信がない。
だから良い娘として
良い妻として
良い母として
良い社員として
良い人として

努力し続けなければ
私には価値がないと

潜在意識に刷り込まれていた。

「私はありのままで価値がある」と思いたい反面、その価値観を自分自身に落とし込めていない状況で日々をやり過ごしてきた。

そしてとうとう、この夏、
あることがきっかけで、大きな挫折感とともに、完全に自己価値を見失い、生きる意欲がなくなってしまった時期があった。深い鬱状態からくる、眩暈、動悸、怠さ、感情のコントロールが出来ない状況。

私の良いも悪いも受け入れて、愛情を示してくれて、仕事においても大きくな責任を預けてくれて、一緒に夢を語って、頑張ってきた友人が亡くなった。
そして、その友人に託された、これからのライフワークにしていこうと心に誓った、プロジェクトもその方の死後、紆余曲折を経て、私の手元から離れていってしまった。

これほどの挫折感はなかった。
全ての感情は消え去り、すべてが面倒臭くなった。

人と会うのも、SNSを見るのも、食べるのも、話すことも、何もしたくない。何も感じない。
ただ、突発的に予測不能のタイミングで涙が出ては、
気が遠くなり、また眠りに落ちる。
自己価値を自分の成し遂げたことに見出してた私は、私のことを心から信じてくれる存在と人生をかけて取り組みたいと思ってた仕事を失ったことで、いとも簡単に自己を見失った。

それから4ヶ月、今に至るまで、自己の内面ととことん向き合い、周りの理解してくれる愛のある人々に支えられながら、新たな生きる希望を見つけ、自分の本来の姿を取り戻すために生きることが私のテーマだった。

今となっては、その茫然自失となった経験は私が自分を根本的に愛せずに生きてきたことを浮き彫りにしてくれて、自己の成長を強力に促してくれたと感じ、この苦しみこそが宇宙からの愛だと心の底から思う。

巷で「自己肯定感」や「自己愛」などの重要性がフィーチャーされ出した昨今、

それ自体は凄く画期的で良いことだと思うけれども、
なぜ「自己肯定感」が持てないか、なぜ自分を愛することがこんなにも難しいのかの根本的要因とその解決策はなかなか教えて貰えない。

「もっと自分を愛そう」
と言うのは簡単だけど

みんな、それが出来ないから苦しんでる。

その自己否認の原因を探り、自己を客観視し、その原因への対処をして

自分を受け入れて

初めて自分を「愛する」事を許容できる。

このプロセスこそが、

自分を素直に愛するための精神的ブロックの解除であり、トラウマを昇華させていく作業。

このプロセスを経て、魂を成長させることが「生きる」

と言う事の意味だと言っても大袈裟ではないと思っている。

より自分を愛して、その分だけ自分以外の存在をも心の底から愛せる。

この愛の拡大こそが、魂の成長の目的であって、その学びをしにこの地球に生を受けた。これが私の中の揺るがない真実。

話が脱線したから、戻します。

今回のタイトルの「誰にも言えなかったトラウマ」とは、

性的トラウマこのと。

上記で綴ったように、
私は自分を愛したいと心の底から思い、
自分を愛せずにいた原因ととことん向き合ってきた

育ててもらった親との関係性
そして女性としての他者との関わりだ。

親子についてはまた別の機会に。

性的トラウマは自分が女性であることへの無条件な嫌悪感を引き起こす。

カードリーディングという一種のカウンセリングのお仕事を通して、100人以上の悩みやトラウマと向き合ってきたけれど、
親子間のトラウマの次にこの性的トラウマは潜在意識の相当根深い部分に蔓延って、人格形成と人生の選択に大きな大きな影響を与えることがよくわかる。

恋愛や結婚、離婚、それなりに男性との関わりを経験した中で自分の中には女性としての自己嫌悪が根付いている事にようやく気がついた。
女性である自分どこか恥ずかしく感じる。

いっそ男性に生まれた方が良かったと思うこともよくあった。

しかし、ここ1、2年で私を取り巻く人間関係が大きく変わり、女性である事への誇りを持てるような出会いが増えて、もっと自分の性を受け入れたい。

女性としての自分を愛したいとより深く願うようになった。

そして半年前、きっかけがあり友人のスピリチュアルなカードリーディングセッションを受けた際
「私の女性性へのトラウマのパンドラの箱が開く」と言うカードが示された。

その瞬間、ある映像を思い出した。
私の幼少期の記憶だ。
記憶の箱の中に鍵をかけてしまっていたような記憶。
それは、幼少期(4、5歳頃)定期的に私の身に起こっていた事。
私が性的なイタズラの対象であった映像。

なぜ、ここで、私が虐待と言わずに「イタズラ」と言葉のニュアンスをライトにしてるかと言うと、加害者もあまりにも幼く、自分よりも二つか三つ年上の子どもによる、
性的なイタズラ。その行為をした側も、あまりにも幼い者同士に起こってしまったことで、

私自身が「虐待を受けた」との認識が薄くて、むしろ自分自身に罪の意識すら残ってて、実はまだはっきりと頭で整理できていないから。

あまりに幼くてその行為自体の善悪も判断できない私は、ただそれを受け入れる事しかわからなかった。言う事をきかないと、遊んでもらえない。嫌われたくない。

キスをされたり、局部を触られたりした。
きっとその子は当時大人の真似事をしたかったのだと思う。
私自身、嫌だったかも、怖かったのかもよく覚えてないが、とにかくいうことを聞かないと従わないといけないと思っていたのだけは覚えている。

善悪の判断もわからないけど、親には言ってはいけない事だと言われたし、言ったら私は悪い子になると思って、大人の誰かにこの話をした事はない。
誰一人として話したことのない、封印した過去。

これは当時「私たちの秘密」だった。
そして気持ちの悪い記憶は、なかった事にしたかった。

今このパンドラの箱から飛び出た記憶を、客観的に眺めてみて、これは性的なトラウマだったと
初めて認めたのがこの時だった。

30年以上もの間私の潜在意識の箱の中にしまってたトラウマを潜在意識から掘り起こすことができたのだ。
「悲しみ」と「自己否認」の種をようやく見つけることができた。

しかしこのトラウマを癒し昇華しようにも、その方法がわからなかった。

まずこの事を思い出して考えてみても
なんの感情も湧かない。
ただのスライドショーの様な映像的な記憶でしかない。

しかしそのただの映像的な記憶から
「大きな悲しみ」と言う感情的な記憶が蘇ってくるきっかけがあった。

その悲しみの感情の波は、最近になって突然来た。
久しぶりにある人とセックスをした2日後に押し寄せた。

私自身には、しばらく特定のパートナーは居なくて
ごく稀にだけれど、機会が訪れる。

それにしてもコロナ禍で新しい出会いなども特になかったのでかなり久しぶりではあった。

今回の相手とは初めてだったが、いい時間を過ごした。
それは、私がこの1、2年で女性性と男性性のあり方について積極的に学びを深めてたから、これまでのなんとなく流されてそうなった、みたいな感じではなく、素直に互いの思いやりを差し出し合うような良い時間を過ごせたのだと自負した。

今回のセックスを通して、愛されることで「私そのものに価値がある」と自己愛を深めることができるのだ、と深く実感したし、その後も優しい温かい気持ちになれた。

なのに、その翌日から、なんとなく胸のあたりが詰まる感覚で痰が出てくる。
精神と身体は一体で、精神的作用が身体に反応として出てくる。何か感情が詰まってるかも、と思った。

すると、それまでせっかく幸せな気持ちでいたのに、
「どうせまた雑に扱われるかもしれないから、これ以上は関わるのはやめておこう」とか
「また都合のいいように遊ばれて終わるから、好きになってはいけない」とかまだ起こりもしないことへの恐怖心からか自己防衛的な意識が自分の中に芽生え、被害者的思考に傾きそうになる自分に嫌気がさした。

なぜ、その時に愛をまっすぐ受け取れないのかと自分に対して疑問に思い、自分の内面を見つめる必要を感じた。

「あいり、どうしたの?なにがそんなに怖いの?ただ楽しい時間を過ごしただけじゃない。ただその時に愛されてその時にそれを受け入れて、それでよかったじゃない、何を怖がっているの?」と自分に語りかけてみた。

すると、その半年前に思い出した幼少期性的なトラウマの映像が再び浮かび上がってきた。

これまでは映像だけで、感情は思い出せなかったのに、

「あいりは、悲しかった、とても、悲しかった。私は受け入れたのに、なんで私を置いていくのか、なぜ私は雑に扱われるのか。なんで私は言うことに従ったのに、私は一緒にいてもらえないのか。私だけがのけものだ、我慢したのに。」そんな心の声が聞こえて、悲しみの涙が溢れた。

次第にその悲しみの感情はダムが決壊したかのように大量に溢れ出し、過呼吸になるほど嗚咽と共に溢れ出た。

この瞬間にわたしは、「悲しみ」の感情と共に「性的トラウマ」の種をようやく見つけることができた。

私は一緒に遊んで欲しかった。
無邪気に子供心に好きだったのだ。
もちろん恋愛的な好きではない。
無邪気にただ好きだった。

年下に弟がいる私は、年上の子たちと遊ぶのが凄く嬉しかった。
大好きだった!

だから、言う事をきいて受け入れるしかなかった。
言う事を聞かないと
すぐに仲間外れにされる。一緒に遊んでもらえない。

言う事を聞いたのに、仲間外れにされたり、心ない言葉を言われて、私は凄く悲しかった。言うことを聞いたのに、その後に遊んでもらえずに、無視されて雑に扱われた私は、酷く傷ついた。
4歳から5歳のときの私の精一杯の悲しみの表現だから、これだけの簡単な言葉に収まる、収まってしまう。
でも今でもここに記しながらも胸が痛くて張り裂けそうで涙が出そうになる。

これだ。これの悲しみが昇華されなければ、私は自分の女性性を本質的に受け入れることができない。

私は我慢して受け入れたのに、ないがしろにされた悲しみ。これはその後の恋愛でも同じような感情を繰り返して、自分は愛されないという刷り込みが自分を苦しめる。

今ここで思いっきり泣いて、当時の私を抱きしめて受け止めてあげなきゃ。

トラウマが癒されると人は本当に自己愛が深まりより強く優しくなれる。

身体と意識は面白いほどに繋がっていて、セックスという身体と精神の両面を揺さぶる愛の性行為が
過去のトラウマの嫌悪の記憶の性行為を癒してくれるキッカケを誘発してくれた。

性行為は欲望とともに消費されてはいけない。
どんなシチュエーションでも(今回のような、はじめての出会ってから浅い関係性であっても)その瞬間が相手への思いやりの愛で満たされていれば、深い魂の癒しの時間になる。

セックスは欲望であり下ネタとして穢されてきた背景があるけれど、それは間違ってる。
セックスは、思いやりで癒しであり、愛そのもの。
そういう風に、社会全体で捉え直す必要がある。

そうじゃないと、私のように、自分の記憶の深い部分で自己を苦しめ続けるトラウマを癒すキッカケがない人がきっと物凄く沢山いると思うから。

愛のあるセックスは波動を調整して高め合う、神聖なスピリチュアルな行為です。

それを改めて体感して
私は一つ、また自分への愛を深めることができ
これからの人生が楽しみだと思えることに
感謝が溢れている。

ここまでの魂の苦しみと癒しの道のりが
この人生を豊かにしてくれてる。

ここまで、読んでくださって本当にありがとうございました。






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