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お坊さんも悩める現代人、救いは唯識?

「いまさら聞けない仏教の話」とは、毎月1回開催されている、仏教の質問にお坊さんが何でも答えるオンラインイベントです。

このnoteは、「いまぶつ」で質問に答えている2名のお坊さんのフリートークを記事化したものです。

登場するお坊さん
フリースタイルなお坊さん:辛島正英
高野山真言宗 福王寺:福井隆雅

→当記事と同様の内容を、エア寺ラジオでもお聞きいただけます
https://airderajapan.studio.site/radio#imabutsu

前編:なぜお経を読むの…?お坊さんに質問できる「いまぶつ」のすすめ

お坊さんに何でも聞ける、といっても…

辛島
「こんな質問していいか分からないのですが…」と躊躇される方も多くいらっしゃいますが、何でも聞いてください。仏教は面白いですが、経典も情報も多すぎて難しく感じると思いますので。

福井
説明しにくいですよね。実際、私もよく分かっていない。

辛島
「仏教って難しい」と感じる方は多くいらっしゃいますが、それは「生老病死」つまり人間の生き死にに関わる問題すべてに関係しているからだと思っています。その人ごとに生老病死に対する疑問や課題、考え方が違うので、お坊さんであっても、どのような言葉や接し方がよいのかは悩みます。

そこが、仏教の面白いところです。

「生きるとはなんぞや」という問いに対しては、必ずしも厳格な修行をする必要はなくて、生活の中の当たり前の行為や日常に「なんぞや、なんぞや」と問いかけ続け、突き詰めていってもいいんです。仏教を学ぶとその問いかけ自体も幅広くなります。生老病死と、自然としての「人間」について考え直す機会があれば、人生はとても面白くなります。だからお坊さんに対しても正解を求めるのではなく、一緒に悩ませてください。


仏教と僧侶の役割は枠にはまらない

辛島
お坊さんもそんなこと考えるんだ、とか、お坊さんも悩むんだ、ということも知って欲しいですね。とっつきにくい神聖な職業の人…と思われがちですが、お坊さんも人。悩みのない人はいませんし、悩みは正常の証でもあります。特別視せずにかかわってください。

福井
辛島さんは「フリースタイル僧侶」というスタイルを取られていますが、一般の方からしたら「何ですか?」ですよね。普通はお寺に所属して住職してるんじゃないですか…?って。

辛島
フリースタイルはとてもいいですよ!

お坊さんイコール法事や葬式をする人であって、それ以外に出番がないと思われているようですが、仏教は社会の中で幅広い役割を担ってきました。奈良時代に仏教の考え方に基づいて国づくりをしたのは聖徳太子です。当時、仏教の教えとともに建築や医学も伝来し、お寺は病院や薬局、孤児院の役目を果たしていた時代もありました。江戸時代には「寺子屋」という地域のコミュニティであったことは広く知られています。

本来、お坊さんは生老病死にかかわる「何でも屋」みたいな役割なんですね。私自身は「仏教」という言葉自体にもこだわらなくてよいと思っています。「仏教」といいましても、仏教徒の人だけに限定された何かがあるというわけではなく、広くは宇宙論などにも通用する真理でもありますから、最近は世界中で人気なんですね。先人達が残し、2000年以上経った現代にも受け継がれている知恵袋だと捉えれば、もっと仏教を身近に感じていただけるのではないでしょうか。

唯識が現代人を救う?

福井
辛島さんはよく唯識について話されますが、「心が世界をつくっている」という文脈でものごとに向き合えると、現代人も救われる部分がありそうです。

現代では、幸せや魅力や、最近ではSDGsなんかもそうですが、相対的な評価や考え方が当たり前になっています。しかし環境も仕事も年齢も違う人々が集まっている世の中で、その価値基準は幻想に過ぎないのではないでしょうか。

私たちはつい一元的な幸せを求めがちですが、SDGsだってその人によって価値も考えも違う。単純に「持続化」といっても、できることにも差異が出るはずです。

だからこうあるべきという同調圧力ではなく、「それぞれの心が世界をつくっていくんだよ」とおおらかに捉えて、自分自身が持つ「世界をつくる可能性」を認識するとよいのではないか、と思うわけです。

唯識は自分の命を味わうための教え

福井
唯識の専門家がおっしゃっていた印象的なたとえ話があります。

「各個人がPCを持っていて、OSが私たちの世界だとします。同じOSが各自にインストールされていても、PCの使い方も、検索も、ダウンロードされているソフトも違います。GoogleアナリティクスだってAIの発達で進化していて、データの質や量も変化しています。同じOSでも、PCの持ち主ごとに体験やメモリが違ってくるということです」

たとえば福井隆雅という「私」は、自分のPCの中にも存在しますが、辛島さんのPCの中にもいるはずです。辛島さんの体験してきた福井隆雅は、私の体験とは違いますから、さまざまな自分が並列して各所に存在するわけです。

「これが私です」などという確固たる存在はないのです。それなのに「理想の自分」を求めたって、それぞれのPCによって存在価値が違うのですから、一元化なんて無理じゃないですか。

つまり、人の目をあまり気にせずに、自分という存在を多くの人と交差させながら変化させ、自分の命を味わうための教えが唯識なのではないかと。

生活をしていると「欲望って何だろう」とか考えてしまいますけど、そのような疑問も唯識で突き詰めていけそうですよね。

自分の考えが、自分の人生の舵を切る

辛島
私たちは、ものごとを良い悪いなどの主観で判断しがちですが、無意識で判断してる自分もいるはずです。唯識の教えを知っていれば、「それが嫌い」とか「この人嫌い」とか主観でレッテルを貼っている自己に気付きます。

逆に、他人に勘違いされたり、嫌われることもあると思います。でも、この世で生きている限り仕方がないですね。他人も主観で生きていますから。

よく知らない人に対してもすぐにレッテルを貼りがちですが、人と接していれば、さまざまな考え方があるという事実に気付くじゃないですか。違うのが当たり前という世界に、思考をひっくり返すことができるのです。

唯識では、「私が見ている世界は私の心がつくり上げている」と考えます。
苦しみも悩みも、自分次第。大切なのは繋がりと主体性が生まれることです。私とはいろんなご縁によってできている網目のような存在であり、そんなご縁の中で、自分の考え方ひとつで自分の人生の舵が切れると思うと、素晴らしくないですか?

主体性がなく考え方が固定されていると宿命的な考えになってしまいますが、自分次第で人も変えられるし、自分の身体の調子ひとつで見方も変わっていきます。

たとえば10代、20代、30代の自分では、年代ごとに母親に対する見方が変わっていませんか? 心は人をも創ります。それに気付けば、幸せや苦しみ、迷いも解決策も自分の中にあることに気付けます。希望も自分の中にあると価値転換ができるのです。仏教ってこういうことを教えているんですね。

自分や日常のさまざまなできごとを観察すればするほど、価値観は違っていいことが腑に落ちるはず。ストレス社会の現代に活かせる教えという点では、唯識は希望の光だと感じています。実際に私の周りでも、生きやすくなった、生き方が変わったとおっしゃる方もたくさんいらっしゃいますから。

前編:なぜお経を読むの?お坊さんに質問できる「いまぶつ」のすすめ

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