ショートショート『メバチコくん』
『中学入学おめでとう、茉奈。今日はね、茉奈に渡したいものがあるの』
そう言って母が広げた手の中にはゲジゲジのような生き物が小さく蠢いていた。
『お母さん…なに…これ…?』
『これはね、茉奈、中学生になったら、みんなが身につけるものなんだ。』
父からそう告げられた瞬間、そのゲジゲジのような生き物は、匂いを嗅ぐようなそぶりを見せた後、母の手を離れて、私の腕に飛び乗ってきた。
『きゃあ!、お、お父さん、早くとって!気持ち悪いよ!』
『茉奈、それはみんなも身につけているから大丈夫だよ、安心してその子に任せるんだ。多分、今頃、優子ちゃんも、美希ちゃんも。それに、お父さんやお母さんだって、もう随分前に、それを身につけているんだからね』
ゲジゲジがTシャツの中に入って私の身体を走り回っていて、父の言葉なんか頭に一つも入ってこなかった。
母と父はいつも通りの優しい表情で、ゲジゲジを振り払おうと暴れる私の肩を掴んで抑えた。
『お母さん!?お父さん!?、なんで…』
ゲジゲジが首元まで上がってきた。無数に生える脚が私の皮膚をくすぐるように弄ぶ。
『きゃあああああ!!いや!!お母さん!早くとって!!』
ついに、顔にまで登ってきたゲジゲジは、何かを探すように、頭についた触覚で私の顔を叩き始めた。
顎を叩き、唇を叩き、えくぼを、最近でき始めたニキビを、鼻を、下まつ毛を。ゲジゲジが顔を叩く感触がいちいち繊細に伝わってきて、むず痒く、気持ち悪い。
ゲジゲジが右目に到達すると、目頭に向けて、お尻にある針のようなものを突き刺した。
『痛っ…』
注射器で刺されたような小さな痛みの後で、急に目の前が真っ暗になり、意識が遠のいた。
『おめでとう、茉奈。これであなたも大人の一員ね』
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入学式が終わって初めて中学に登校する日。
朝、起きてからずっと右目がゴロゴロしていた。ピリリと痛いような、腫れてるような、何か異物が入ってる感覚が、顔を洗っても、目を掻いても全然取れない。鏡で見てみてもなんの異常もない。
『おはよう』
『おはよう、茉奈。今朝の調子はどう?』
『どうって…別になんともないよ…右目がちょっと変なだけ…』
突然、母が変なことを聞いてきた。
『そう、あなたのは右目についたのね。』
『茉奈は右目か、縁起がいいなぁ。お父さんなんか左の膝の裏だぞ? 今は慣れたけど、身につけた時は1ヶ月くらい眠れなかったなぁ』
朝ごはんを食べ終えて、仕事に行く準備を整えた父が居間に入ってきた。
『お父さん、昨日のこれって…なんなの?私の目が変なのと何か関係があるの?』
『それはな、言うなれば、大人になった証みたいなもんだ。茉奈は今日から中学生だろ? ほら、ファミレスとかテーマパークとかも、中学生から大人料金が取られるだろ?あれと一緒だよ。』
『目が変な感じなのももう少ししたら慣れるよ。お父さんはしばらく慣れなかったけど、膝の裏だったからなぁ』
『あんた、その話するの好きねぇ。』
大人の証?ゲジゲジが??
何もかも意味がわからなかった。どうやら2人にも同じゲジゲジが身についているようだが、そんなもの今まで見たことなんて…
“お前の父親は適当だなぁ。まぁアイツもそうとしか説明されてこなかったんだろうし、致し方ねぇのかなぁ"
『な、なに!?誰か私の耳元で喋った!??』
そう叫ぶと、母がコップを落とした。
『茉奈、あなた今、なんて言ったの…?』
『え、いや、誰かが私の耳元で喋る声が聞こえて…』
そう言うと、2人は一瞬、顔を見合わせて、私の方に翻ると、ものすごく驚いた顔をしたかと思えば、すぐに笑顔になった。
『お、お前、もう声が聞こえるのか!そうか…もう声が…』
『その声はね、あなたに昨日身についたものの声なのよ。普通は声が聞こえるまでに一週間くらいはかかるものなんだけれど、あなたにはもう聞こえるのね!』
私の両親は、ドッキリとか人に迷惑がかかるような冗談はあんまり好きじゃないタイプだから、2人が嘘で私を揶揄おうとしてるようにはとても思えなかったし、2人の喜ぶ姿は、いつか私が人を助けて賞状をもらった時と同じか、それ以上に心の底から喜んでいるように見えた。
"初めて両親のことを鬱陶しく思ったな。あるいは、気味が悪いと思ったのか"
『あ、ま、また何か喋ってる…、き、気持ち悪い…』
"おいおい、気持ち悪いとはなんだよ?せっかく人がアドバイスしてやっているっていうのに。"
『き、気持ち悪いよ!あなた、いったいなんなの!、私の中から早く出ていってよ!!』
ゲジゲジを頭から出そうと、水泳選手が耳の水を抜く時のように頭を横に強く振ったが、目が回るだけで、私の身体から何かが出てくる気配はなかった。
"そんなことで身体に身についたものが取れるわけないだろう?"
『もうなんなの…どっかにいってよ…』
『あら?、もしかして、茉奈、もうそれと会話ができるの?』
ぺたりと座り込んでしまった私の元に母が駆け寄ると、ヨシヨシと頭を撫でた。
『身体の中のそれと会話ができるようになったらもう一人前。これからずっと一緒なんだから、名前とかつけてあげた方がいいわ』
『お母さん、これ、絶対に取れないの?』
そういうと、母はとんでもない、という顔をして、それはもうあなたの一部なんだから、と言ってお弁当作りに戻っていった。
私は何がなんだかわからなかったが、とりあえず母の言う通り、この頭の中に住み着いたゲジゲジに名前をつけることにした。
『あなたが私の身体に入ってから、目がずっと気持ち悪いから、あなたの名前は"メバチコくん"ね』
"なんて酷い名前だ…まぁ、理にかなってるかもな"
メバチコくんの言ってることの意味は理解できなかったが、とにかく今日は、中学校に初めて登校する日なのだ。
頭の中はメバチコくんのことでいっぱいだったが、今日から始まる中学生生活の最初を台無しにしてはいけない。
母が準備してくれたお弁当をカバンに詰め込み、家を出た。
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『それでね、昨日、ママとパパが私に何を渡してきたと思う!!虫だよ!虫!!、足がいっぱい生えてて、トゲみたいなものがお尻から生えてるキッモイ虫!!ママもパパも私が虫嫌いなの知ってるくせに、虫なんて渡してきたんだよ!』
小学校の頃から一緒に登下校している幼馴染の優子が話し始めたのは、やはり、あのゲジゲジのことだった。
『しかも、その虫、私に向かって飛んできたんだよ!ママもパパも全然追っ払ってくれないし、それどころか、ずっとニコニコしてるし!!挙げ句の果てに、私を動けないようにしたんだよ!酷くない!?』
“うるさいなぁ、コイツ、なんでこんな奴と毎日学校に通ってんだ?”
おしゃべり優子が滝のように喋り続けている間も、メバチコくんは私に語りかけてくる。
『それに、最悪なの!、その虫、私の身体中走り回って…うぇぇ…今思い出すだけでも身体中痒くなって来るし、気持ち悪いし…』
“おめぇだって十分気持ち悪いよ、唾飛ばしながらしゃべりやがって”
『もっと最悪なのはここからだよ!、その虫、そこからどうしたと思う!?私の髪の毛の中に入ってきたんだよ!もう、最悪…私、頭かきむしったからあの虫の脚も髪の毛に絡まっただろうし、体液とか…うげぇ…』
“お前が騒いだくらいで脚が取れたり、体液が漏れたりするかよ”
『しかも、その虫やばいの!私の頭に針刺してきたんだよ!!やばくない!??、ねぇ、茉奈、毒とか入ってたらどうしよう!私死んじゃうのかな…、昨日、パパとママが言うには、私そのまま倒れちゃったらしいし…』
“そのまま死ねばよかったのにな”
『うるさい』
『え、何か言った?』
慌てて取り繕った。
そうだ、メバチコくんの声は私にしか聞こえてないんだ…。
『ねぇ、茉奈はなんともなかった??ママが茉奈ちゃんもきっと身につけてるって言ってたんだけど…』
優子も同じようなことを言われたようだ。
私が体験したことをそのまま優子に伝えると、優子はげぇげぇ言いながら話を聞いてくれた。
でも、メバチコくんの話はしない方がいいと思ったから、優子には伝えなかった。
“親友に隠し事か?”
うるさい。
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ゲジゲジの話ばっかりしてても楽しくないから、話題を変えておしゃべりしながら歩いていると、学校に着いた。優子と一緒ならどれだけ学校が遠くても一瞬でついたような感覚になる。
中学のオリエンテーション中もゲジゲジの話で持ちきりだった。
伝え聞いた話だと、人によってゲジゲジが身についた場所は違うらしく、私は右目、優子はうなじ、美希ちゃんは左胸、大路くんは右の中指、右隣の派手な女子はお父さんと同じ膝の裏だったらしい。まだ慣れないのか、授業中も膝の裏を頻繁に触ったり掻いたりしていた。
“ちょこまかちょこまか動くなよ…授業に集中できないだろうが…しかも、学校に香水なんかつけてきやがって…席替えまでコイツがずっと横なのだるすぎる”
私のように、メバチコくんが話しかけてきたり、メバチコくんと会話できてる、なんて話ひとつも聞かなかった。
でも、時々、煩わしそうに頭を振ったり、耳に指を入れて、うるさそうにしている子もいたし、もしかすると、私みたいにメバチコくんのことは話さない方がいいと思ってる子ばかりなのかもしれない。
そんなことを考えていると、初めての登校日が終わった。
“担任、禿げてて、息も臭いし、キモかったな…”
そんなこと思ってない、思ってない。
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初登校日から、1週間が経ったころだったろうか。
特別、何か大きな事件があったとかそういうことはなくて、ただただ中学生活が滞りなく進んでいった。もちろん、メバチコくんは何かと私に話しかけて来るけれど、メバチコくんが原因で何かが起こったこともない。
ただ、少し違和感、というか慣れないこともあった。
それは、クラスに特定の友達グループができてきたことだ。
休み時間になると、みんな特定の友達と集まっておしゃべりしたり、手遊びをしたり、校則違反だけど持ってきた漫画を読んだりしていた。
“そんなもの学校に持って来るんじゃねぇよ、うるさいガキども”
小学校の頃は、クラス替えして知ってる子がほとんどいなくても、1週間もすればみんな仲良くなってたし、良い意味で遠慮がなかった。ふんわりとしたグループみたいなものはあったけど、こっちのグループとあっちのグループがくっついたり離れたり、メンバーが入れ替わったりするのはよくあることだった。
でも、中学に入ってからはそういうことも無くなった。
男子はいいとしても、女子にもこれまで一度も喋ったことのない子がいるし、グループ同士がくっついたりすることもないし、人が入れ替わることもない。毎回同じ友達と集まって、チャイムが鳴ったら席に戻る。これの繰り返し。
“またコイツらとおんなじような話するのかよ…”
それに、もっと変なことは、私があんまり話さなくなったことだ。
小学校の頃は、私と優子と美希ちゃんと、それから別の中学に行っちゃった子の4人でいつもよく遊んでいた。昔から優子はよく喋る子だったけど、私を含めて、他の3人も優子に負けじとよく喋ったし(それでも優子のおしゃべりには負けたけど)、よく他の子の話を聞いた。
今のグループは、優子と美希ちゃんと、中学に入ってから仲良くなった萩さんという子の4人グループ。この4人でいる時、私はあんまり喋らなくなった。
それは、新しく仲良くなった萩さんが悪いとかではなくて、なんというか、そうしなくちゃいけないかも、っていう気持ちになるからだ。
私たちが4人でいる時は、いつもおしゃべりな優子が話の中心で、それに相槌を打つ役が私と萩さんで、美希ちゃんはその話にツッコミを入れたり、話題を変えたりする役、そんな風にまるで劇の配役が決まってるみたいに。
別にそれが嫌ってわけじゃないんだけど、なにか違和感があるだけ。小学校の卒業式で担任のあいちゃん先生も「中学校では小学校と違うことがたくさんあるからね」って言ってた。多分、あいちゃん先生が言ってたのはこういうことなんだろうな。
“本当は、嫌なんじゃないのか?”
こういう些細なことに違和感があるの以外は、特に何も大事なことは起きていない、のだと思う。
“1人、どこのグループにも属してない奴がクラスにいるなぁ”
え?
本当だ。1人で席に座って静かに本を読んでる子がいる。
名前は…わかんないけど、小学校だとそういう子もたくさんいたし、1人で過ごすのが好きな子もいるからね。ああいう子がクラスに1人くらいいても何の問題でもないでしょ。
“どこのグループにも属せてないなんて可哀想な子”
え?
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それから3週間が経って、違和感は次第に大きくなっていった。
ある日、美希ちゃんがこんなことを言い出した。
『支倉くんってちょっと空気読めないところあるよね』
支倉くんというのは、どこのグループにも属さずに1人で本を読んでる彼のことだ。この前のテストで、クラスで唯一100点を取って、先生に褒められていたのでようやく覚えた。
『え、そうかな…』
『そうだよ、この前だって、クラスで親睦会するってなったのに、僕はいいです、なんて断ってたし、ノリも悪いんだよね』
『ほら、何か用事があったのかもしれないし…』
“やっぱみんなも支倉のこと、空気読めない嫌な奴だと思ってたんだな”
『あ、そういえば、この前、私も支倉くんにさ〜』
美希ちゃんの出した話題に優子が食らいついてしまった。
こうなってしまうと、もう優子は止まらない。支倉くんに対して思ったことをそのまま口に出して、美希ちゃんは優子を囃し立てるかのように話題をどんどん出していく。
『っていうことがあったんだよね。本当に支倉くんって不親切だと思わない?ねぇ、茉奈?』
ううん、そうは思わないよ。
“そんな状況で優子のことを助けなかったなんて”
だってそれは優子が悪いし、その時、支倉くんに優子を助ける義務なんてないもん。
“支倉ってなんて嫌な奴なんだろ”
大体、最初に支倉くんに悪い冗談を言ったのは優子の方じゃないの。
“みんな、支倉を嫌ってるのか。よかった、支倉を嫌いになる理由ができて”
『…ほんとだね、支倉くんってサイテー』
『茉奈もそう思うよね!萩さんもそう思うでしょ??』
『…う、うん、確かに…そうかも…』
あれ?
私、何で思ってもないことを口走っちゃったんだろう。
“思ってもない?本当に?”
…本当。
だって、私、前に支倉くんに親切にしてもらったことだってあるし…
“あの時、あいつニヤニヤしてたよな?お前のこと、内心、馬鹿にしてたんじゃないのか?”
違うよ、多分…
あれは支倉くんなりに私に笑顔で接してくれようとしてただけで…
“支倉ってそんなにいいやつなのか?優子と美希の話は?”
2人の話だって変なところはたくさんあるし…
“2人は信じられない”
そんなことない!
“なら、支倉と親友、どっちを信じる?”
…
キーンコーンカーンコーン
『もうこんな時間?じゃあ、また次の休み時間ね!』
“支倉は空気を読めない嫌な奴だ”
“お前のことを馬鹿にしてるに違いない”
“だから”
“だから、いじめられても仕方ない”
そんなこと思っちゃだめだ。
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それから、少し経った。
支倉くんは学校に来なくなった。
クラスのみんなが支倉くんをいじめ始めたから。
それも、まるで示し合わせたみたいに、みんなで、いっせいに。
なんでなんだろう。グループ同士、交流なんて少しもなかったのに。
私たちのグループは直接いじめに加担した訳ではなかったけど、支倉くんを助けもしなかったし、無視したことさえあった。
“いじめられるようなことをした支倉が悪い”
…いじめる方が悪いに決まってる、テレビでも大人がそう言ってた。
“テレビの大人が嘘つきなことくらいお前も知ってるだろ?”
“お前の好きなあの俳優だって、嘘をついて他の女と遊んでた”
支倉くんが学校に来なくなってから、また違和感は強くなって、クラスの空気、みたいなものが重くなった気がする。
田中くんのグループも牧瀬くんのグループも花角さんのグループも宮城さんのグループも、そして、私たちのグループも、休み時間になったらいつもと同じグループで集まるっていうのは変わらない。
だけど、なんていうか、お互いがお互いを見ていて、同時に見られてもいる、そんな感覚がある。
監視されてるとかそういうわけじゃない。
授業で別のグループの子と一緒になることもあるけど、みんな親切だし、無視されるとか嫌な冗談を言われるとか、そんなことは一回もない。
でも、いつものグループに戻ると、見られてる気がする。言われてる気がする。
“悪口を?”
…違う。
“本当に?”
…わからないけど、多分、違う‥と思う。
“他のグループの奴ら、お前の悪口を言ってるに違いない”
そんなはずない。いつもうるさいんだよ。黙れ。
“優子だって、美希だって、たまに言うじゃないか”
うるさい、うるさい、うるさい、うるさい、うるさい。
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支倉くんが学校に来なくなってから、数週間後。
優子も美希ちゃんも部活を始めた。
優子は陸上部、美希ちゃんはテニス部。私と萩さんは運動があまり得意じゃなかったから自然と帰宅部になった。
だから、今まではいつもの4人グループで学校から帰ってたけど、最近は萩さんと2人で帰っている。
『今日の数学の授業難しかったよね〜、私、計算はちょっと得意だけど、図形とか、自分で色々、線とか書き足すのは苦手で…』
『…へぇ〜、そうなんだ…』
『う、うん…』
『…』
“萩、お前、なんか話せよ”
普段、喋る役の2人がいないから、聞き役の私たちだけだと会話が持たない。2人でいるのに、沈黙がずっと続くのはしんどい。
“あそこで歩いてるの同級生じゃないか?あいつらは楽しそうに喋りながら下校してるのに”
“こっちは無理して喋ってるのにコイツが話を盛り上げようともしないし、話を切り出しもしないから、こんなに嫌な気持ちになってんだろうが”
『萩さんは、なんか最近、苦手だなって思う教科とかある?』
“そんなこと聞いてどうするんだ?どうせ何も返してや来ないぞ”
『…ど、どうだろ…何かあるかな…』
“ほら、やっぱりそうだ。コイツは本当にグズだな”
“こんなことになるならお前もなにか部活に入ればよかった”
この沈黙の時間、家に帰るまでの15分、いや、萩さんと別れるまでだからほんの10分くらいなのに、ものすごく辛い。
『…』
そういえば、同じようなことを、今朝も考えていた。
小学生の頃からずっと優子と登校してた。
2人で歩いてる間は会話が尽きなかったし、優子も私もよく喋った。
でも、最近、優子も私もあんまり喋らなくなった。中学校までの15分間、前までは近所のおじさんに「お前らうるさいなぁ」って言われるくらいずっと話してたのに、今では一言、二言くらいしか話さなくなった。
優子と喧嘩したとか、仲が悪くなったとかじゃない。
学校で陸上部の友達と盛り上がってる優子を見たことが何度もあるし、いつもの4人グループでいる時も、前と変わらずよく話してる。
でも、私と優子、2人っきりになると、私も優子も話さなくなる。
話せなくなる。
何でだろう。
“優子が変わったんだ”
“陸上部はチャラチャラした奴が多い”
“体験入部だって、お前に何も言わずに行ってしまった”
“お前は低く見られているんだ。優子にとってお前はもう興味関心の外にあるんだ”
“優子にとってお前はもう話す価値もない奴なんだ”
“そう心では思ってるくせにお前にそれを伝える勇気もなく、小学校からずっと一緒に行ってるからって、仕方なくお前と学校に行ってるんだ”
“そんな奴にお前から話しかけてやる必要あるか?”
“お前が何か話しかけたところで、あいつはお前のことを陸上部で笑い話として話すんだ”
“そんなやつのこと、お前が気にかける必要なんてあるか?”
『…じゃあ、私、ここで曲がるから、また明日ね、茉奈ちゃん』
優子が私に話しかけないのが悪いんだ。
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2年になった。
いつも通り、苦痛の通学路が始まるはずだった。
『茉奈、話があるんだけど』
優子が数ヶ月ぶりに話しかけてきた。
『2年になって私と茉奈のクラス変わっちゃったでしょ?』
クラス替えの結果、私が3組、優子は1組になっていた。
『しかも、私たちずっと一緒に通学してるけど、最近、少しも喋ってないし…』
“お前が喋ってこないからだろ?”
『…だからね、2年生からは別々に登校するのもいいかなって思ってて』
『え?』
『…ほら、私たち小学校からずっと一緒だったけど、もう中学2年になったし、絡んでる友達だって結構違ってきたし…』
“お前が陸上部のやつとばかり遊ぶようになったからだろうが”
『…その、実はね、陸上部の友達が近くに引っ越してくるらしくて、一緒に登校しようって言われたの』
“ほらみろ、やっぱりお前が裏切るんじゃないか”
『だから、その…今日で茉奈と一緒に学校に行くのは最後にしようって、ずっと茉奈に話したかったの…』
“さっきからずっと勝手なことばかり言いやがって”
『それに…』
『茉奈だって退屈だったと思うし、ちょうどいいかなって』
「ちょうどいい」?
何それ、ちょうどいいって何だよ。
その時、右目の異物感が一瞬なくなった。
“私のせい?”
『私のせい?』
『…へ?』
『この1年間、つまらない登校だったのは私のせいだから、今度は他の子と一緒に行きたいってこと?』
“この1年間、つまらない登校だったのは私のせいだから、今度は他の子と一緒に行きたいってこと?”
『ちょっと、そんなこと私一言もいってないじゃん、私はただ…』
“ただ何?そういうことじゃん、優子っていつも私のせいにするよね”
『ただ何?そういうことじゃん、優子っていつも私のせいにするよね』
『…何その言い方…私は茉奈のためを思って言ってるのに!』
『ほら、また私のせいにした』
“ほら、また私のせいにした”
『さっきからなんなの!?そういう茉奈だって、いっつも何にも喋らないくせに!私がずっと喋ってても、茉奈はずーっと黙って頷いてるだけじゃん!私が何か話しかけても、全然、乗ってきてくれないし!』
“悪いのは優子でしょ!ずーっとベラベラ喋ってて、こっちが話し出すタイミングないくらいいっつも喋ってて、それなのに、私が話し始めたら、全然、真面目に話聞いてくれないじゃん!”
『悪いのは優子でしょ!ずーっとベラベラ喋ってて、こっちが話し出すタイミングないくらいいっつも喋ってて、それなのに、私が話し始めたら、全然、真面目に話聞いてくれないじゃん!』
『聞いてるよ!!、全然話聞いてないのはそっちじゃん!、萩ちゃんだって言ってたよ!いつも一緒に帰ってるけど、私の話をあんまりさせてくれないって!いつも自分の話ばっかりしてるって!』
『ほら、またすぐそういうことをベラベラ喋っちゃうんだ!人から聞いた話を何の考えもなしにすぐ他の人に言っちゃうの優子の悪い癖だよ!そんなんだと、どうせ陸上部の子からもすぐに嫌われちゃうよ!』
“ほら、またすぐそういうことをベラベラ喋っちゃうんだ!人から聞いた話を何の考えもなしにすぐ他の人に言っちゃうの優子の悪い癖だよ!そんなんだと、どうせ陸上部の子からもすぐに嫌われちゃうよ!』”
酷い喧嘩だった。
小さい喧嘩はこれまでに何度もあった。
優子が私の持ってるおもちゃを無理やり取ったり、はしゃいでたら私が優子の顔を引っ掻いてしまったりして。
だけど、それくらいの喧嘩なら、いつも家に帰る前に仲直りできていたし、それ以上長引いても、翌日一緒に登校する時には2人とも忘れてて、いつも通り楽しくおしゃべりしていた。
でも、今回は違った。
2人してお互いを罵って、罵り合った。
具体的になんて言ったかまでは覚えてないけど、とにかく頭に浮かんだ悪口を全部口にしたと思う。
そうやって罵り合っているうちに、2人ともだんだんと落ち着いてきて、静かになったかと思うと、2人とも黙りこくったまま、少し歩いた。
たった数分、数十秒の間だったはずなのに、何時間にも思える苦痛だった。
その時、前の方から優子を呼ぶ声が聞こえた。
さっき言ってた陸上部の子らしい。
優子はその声に応じた後で、私の顔を見て言った。
『もう今日で最後だから、じゃあね』
“早くどっかいけよ、おしゃべり馬鹿野郎め”
『…』
『うん、そうだね』
陸上部の友達の元に駆けていく優子の姿が霞んで見えた。
私の左目から涙が流れていた。
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そのくらいの頃だっただろうか。
メバチコくんの声をうるさいと思わなくなったのは。
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優子から電話がかかってきた。
『もしもーし、あ、茉奈?そろそろプレゼント届いた?』
『うん、届いたよ〜わざわざありがとうね、入学祝いなんて。』
あの時の喧嘩以来、優子とは一度も喋っていなかった。
このまま絶縁状態みたいな感じで、一生会うことも話すこともないんだろうなと思ってた。
けれど、その後、別々の高校に行って、大学に進学した私は、下宿先のアパートで優子と再会した。
話を聞くと、優子も同じ大学に通ってて、私の隣の部屋に住んでいることがわかった。その時にはもう、2人の中からはあの時のわだかまりは消えていた。
それ以来、私が結婚して、子どもができた今でも、ずっと交流がある。
『湊くんももう12歳になるんだねぇ、ついこの間、出産見舞いに行ったばっかなのに、もう12歳か…』
『本当だよ〜、この前、卒園したと思ってたのにもう中学生だからね…時が経つのってほんと早いよね…』
息子の湊がこの春に中学生になるのだが、そのお祝いが優子から届いたところだった。ちょうど、お礼の電話をかけようとしたところで、逆に向こうからかかってきた。
『それで、今日連絡したのはね、プレゼントが無事に届いたかどうかを確認するためじゃなくてさ、』
『何かあったの?』
優子は少し言い淀んでから話し始めた。
『湊くんのプレゼントを選んでたらさ、私たちの中学の頃のこと思い出しちゃって。』
『ほら、私たち、なんていうか、喧嘩別れしちゃったじゃん?』
『あの時のこと、茉奈に謝ってなかったなぁって思って。』
『もう随分前だから、私がなんて言いってたか、なんてもう覚えてないんだけど、ものすごく酷いことを言ったことだけは覚えてて…』
『あの時は、ほんっとにごめん!』
『…そうだったね、そういうこともあったね…』
『優子は悪くないよ…あの時は私から優子のこと悪く言い始めたと思うし…』
『謝るなら絶対私の方からだ。』
『優子、たくさん酷いこと言って本当にごめんなさい』
2人とも、泣いた。ごめん、ごめんって何度も言い合って。
電話越しなのに、お互い、どんな顔をして泣いてるのかすぐに浮かんできた。
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それから、少しして2人とも泣き止んで、こんな話をした。
『あの時、何であんなことになっちゃったんだろうね』
『小学校の頃なら何でもなかった会話とか仕草とか、そういうのが中学に上がってから、何ていうんだろう…重いものになったっていうか…』
『頭の中がうるさくて、絶対にありえないような疑念がどんどんどんどん、勝手に大きくなっていっちゃうような、そんな感じ。』
優子の言う通りだ。
あの時はずっと頭の中がうるさくて、ずっと迷ってて、全部が疑わしくて、全部が変だった。
でも、何がそんなにうるさかったのか今ではもう何も思い出せない。
それは、記憶に蓋がされてるとか、そういうんじゃなくて、ただただそういうのが当たり前になってしまったから、もう何も感じ取れないだけなんだと思う。
その後、昔話に花が咲いて、1時間くらい話し込んでしまった。
もうそろそろ話し終えようかというところで、優子があることを思い出した。
『あ、これで最後なんだけど、中学1年の時にさ、1学期の途中くらいから不登校になった男の子いたじゃん?覚えてる?』
『実はさ、あの子、最近、亡くなったらしくて。それで、彼のお葬式に行った友人が教えてくれたんだけど…』
『彼、あれが身についてなかったらしいんだ。』
『私もよく知らないんだけど、彼の両親の方針で、自分の息子にはあれを身につけさせなかったらしくて…』
『それから、気になってネットで調べてみたんだけど、どうやら、自分の子どもが中学生になってもあれを身に付けさせない家庭が結構あるらしいってことを知ってね…』
『な〜に?それで優子は何が言いたいわけ?』
『いや〜、あのね、湊くん、中学に上がるでしょ?』
『茉奈はどうするのかなって思って。』
『どうするって…』
考えてみたこともなかった。
確かに、湊が小学校を卒業した時に、そろそろあれを身につけさせる時期だね、なんて夫と話してはいたけど、身につけさせない選択肢があるなんて夢にも思わなかった。
『もちろん、普通は身につけさせると思うんだけどね、ただ、亡くなった彼のご両親がね、こう言ってたらしいの。』
『「息子は最後の最後まで自分のやりたいことに没頭できて楽しそうだった。あれを身につけさせていたら、息子はきっと不幸なままだったろう。」って。』
『今思うと、当時、1人で本を読んでた彼は楽しそうだったなって…グループに入ってだべってた私たちと違って。心の底から。』
『私の娘もあと2年もしたら中学に上がるでしょ?だから、茉奈はどうするんだろうって聞いておきたくて…』
かなり悩んだけど、当然、すぐに答えは出せなかった。
優子には、決断したらまた連絡するね、と伝えて、その日の電話は終わった。
湊は、小さい頃から本の虫で、小学校では恐竜博士とか植物博士とか、とにかく博士、博士と呼ばれていた。
あれを身につけなかった支倉くんは、いじめられはしたけど、その才能を開花させて、死の寸前まで幸せそうに過ごしていたそうだ。
湊もあれを身につけさせなかったら、支倉くんみたいにその才能が開花する?
でも、その保証は?支倉くんはあれが身についてなかったから幸福だったの?
湊には普通の幸せを掴んでほしいと思ってる。
でも、私と優子が経験してきたようなことは、果たして普通の幸せなんだろうか。いや、その前に、あれを身につけたら、普通の幸せは掴めないっていうのもおかしな話だ。あれを身につけたままで幸せに死んでいった人もたくさんいるはずだ。でも、あれが身についてなかったことで、全く違う人生を歩めた人もいるだろう…
堂々巡りだ。
湊に直接聞くのがいいのかもしれないけど、何も確定していないことをどうやって説明する?しかも、湊は小学校を卒業したばかりだ。
それに、一番の問題は、湊にあれのことを話す、ということを考えただけで頭に靄がかかったようになる。ぼんやりとして、意識が集中できない。考えが上手くまとまらない。
あれは身につけさせた方がいいのだろうか?
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ずっと不可解なことがあった。
あれがどこからやってくるのか。
私がメバチコくんを身につけた日、母はどこからともなくそれを持ってきて私に身につけさせた。その後、何気なしに母に聞いたら、うやむやにされてしまって、知ることはできなかった。
ただ一言、「茉奈にもそういう時がくればわかるから」と。
事実、母の言葉は正しかった。
湊が小学校を卒業して、4月に入ったころ、私の膣から見覚えのある、ゲジゲジに似た生物が出てきた。
メバチコくんが出てきたのかと思ったが、直感的に、これは湊に身につけさせるためのものだ、と気がついた。
母の言ってた「そういう時」というのはこのことだったらしい。
どうやら、自分の子どもに身につけさせるこのゲジゲジのような生き物は、私の、母親の中で育てられていたようだ。そして、「そういう時」が来たから出てきた。
女性の身体にいるゲジゲジ、私の場合、メバチコくんが、いつのまにか1人でに産んだのだろうか、とも考えたが、あることを思い出して、その考えを否定した。
13年前、そろそろ子どもが欲しいね、なんて夫と話し始めて、妊活を始めた時のことだ。湊を授かるまでに、計画を立てて何度も夫と体を重ねたが、その度に違和感があった。
夫との行為中、右目の異物感が消えて、体の中を何かが移動していく感覚があったのだ。その物体は私の膣まで移動すると、そこから動かず、行為が終わると、ゆっくりとまた右目まで戻ってきた。それが戻ってくると右目の異物感も同時に戻ってくる。
最初は、慣れない行為で身体の普段使わない筋肉が緊張しているのかと思っていたが、そのことを夫に伝えると、夫も同じような感覚を持っていたというのだ。
夫の場合、行為が始まると、右の中指に何かが詰まってる感覚が取れて、何かが体の中を移動して、夫のペニスまで到達すると、それが止まる。そして、行為が終わると、私と同じように元いた場所に戻る。
当時は、その後すぐに妊娠したことがわかった嬉しさで、このことは忘れてしまっていたが、今思い返すと、あの現象は、夫の中のあれと私のメバチコくんが交尾するためのものだったのだろう。そして、その時、一緒に孕んだメバチコくんの子が、今私の中から出てきた。
私の手の中で小さく震えるメバチコくんの子どもは、あの時と同じように何かを探しているように見えた。目的の人間がいないことを確認すると、私の右手に、生えたばかりでまだ柔らかい針を突き刺し、そのまま入り込んだ。
『痛くない…』
膣からあれが出てきたことに最初は驚いたが、今、あれが私の手の中に入ってきても、何の嫌悪感も抱かなかった。
それは私が私の中で育んだものだからだろうか、それとも、すでに私の中にできてしまっていたものだからだろうか。小学校までの私には存在しえなかったはずの、これが。
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私の手に入ったゲジゲジは、私が湊に近づいても出てくることはなかった。おそらく、然るべき時を待っているのだろう。これが出てくるのは、多分、湊が中学に初めて登校する前の日、今から、あと3日後。
3日…それが、私が湊にこれを身につけさせるかどうかを決められる猶予期間。
夫にも相談してみたが、怪訝そうな顔をして「身につけさせるのが普通じゃないの?」との一点張りだった。私なりに考えた、あれを身につけること、身につけないことのメリット、デメリットを伝えてみたものの、夫の考えは変わらなかった。変わる気配がなかった。
夫はまだ私があれを産んだこと、そして、それが手の中にいることは知らない。もっといえば、あれがどこからきて、いつ湊に渡すのかに関して興味がないようだった。私に対して、あれについて夫から聞いてきたことは一度だってなかった。
でも、私が、あれと湊についての話をしようとすると、必ず話を聞いてくれた。どんなことをしていても必ず。まるでそうプログラミングされてるみたいに。
夫のその様子を見ると、多分、私があれのことを当日まで言い出さなければ、夫は、湊にあれを身につけさせることなく、愛する我が子を中学へ送り出すだろう。
湊にあれを身につけさせるのか否かは、私の一存で決められるみたいだ。
入学までの間、湊は毎日図書館に行っては、様々な本を借りてくる。ある日、18時になっても帰ってこないので図書館に迎えに行ったら、司書の人が「毎日、熱心にたくさん本を読んでて、一冊読み終わると感想を紙に書いて渡してくれるんですよ」と嬉しそうに教えてくれたこともあった。
最近は、「本物の博士になりたい」と言っていた。
本で読んだのだろうか、大学院というところまで進んで、たくさん勉強して、たくさん本を読むと、本物の博士になれるらしい、と。
このまま湊が素直にまっすぐ育てば、きっと本物の博士にだってなれるかもしれない、いや、湊ならきっとなれる。あれを入れなければ、湊は支倉くんみたいにずっと本に囲まれる幸せな人生を過ごせるかもしれない。
でも、支倉くんみたいにいじめられるかもしれない。不登校になって、本も嫌いになって、引きこもりになって…
それは普通の幸せなのだろうか。
あれを身につけさせれば、きっと普通の幸せが手に入る。
それは、なぜか確信がある。
でも、それが湊にとって本当の幸せなのだろうか。
眠れない日々が続いた。
毎朝、顔を見合わせる度に、顔色の悪い私をみて、お母さん大丈夫?と心配してくれる湊が愛しくてたまらない。
私はどうすればいいんだろう。
そうしているうちに、3日が経った。
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『湊、明日から中学生だね!おめでとう。』
『今日はね、お母さんとお父さんから、湊に渡したいものがあるの』
右目がピクピクと蠢く感覚がした。
『お母さん、これなんていう虫なの?僕、こんな虫見たことないよ!』
初めて見る虫に年相応にはしゃぐ湊。
『これはね、湊だけのものなの。』
『湊が名付けていいのよ。』
『本当に!?いいの?やった!』
私の手からゲジゲジに似た生物が、私の手を離れて、湊の手に飛び移った。
ゲジゲジは湊の腕を這い回って、パジャマの中に入っていった。
『あはは、すばしっこいやつだな!』
無邪気に笑う湊。
ゲジゲジは湊のズボンに入り込むと、お尻の方に回り込んだ。
『…痛っ!』
膝から崩れ落ちた湊を抱き抱える。
どうやら、ゲジゲジは湊の腰に居を構えたようだ。
『湊、よく頑張ったね…おやすみ』
湊を抱きしめる私の目の前に姿見が置いてあった。
そこに映る私は、左目から涙を流していた。