子供の時、自然の中で遊ぶことが広い視点の獲得につながるのではないか?説

また出てきてしまいました。長いタイトルが。。

じつは先日、下の子供が学校の視力検査で引っかかりました。ショック。

私は小さい頃も視力2.0で(今は1.2とか)あまり目が悪い辛さを知らないんですが…

これはまずい!と言うことでまずゲームの時間を減らしました。

そして何か運動をして緑の多い自然の中に行こう!という事でサッカーチームに入る事になりました。

前からやりたがってはいたので結果、楽しそうで良かったです。

ところで彼が皆んなに混じってサッカーやってるところを見て、気付いたことがありました。

むむう。なんというか…


視野が狭い?


ほとんど目の先1メートルくらいしか見えてないんじゃないのか?ヤツは。手元を見るゲームばかりやってたからだろうか。

やたらボールにずっとくっついてて団子みたいになってるので、コーチからは、「こら〜〇〇!ラグビーやってんのか〜〜」などと言われてました。多分イミ分かってないと思いますが。笑

これって、教えて出来る場合もあると思うけど、生まれつきではないにしても、かなり小さい頃から培われるべきものかも知れない。

状況を俯瞰で見れて、どこにいたらボールが貰えるか教わらなくても何となく分かる能力。自然にやれる子もいるのかも知れない。まあ、練習が大切でしょうけども。

色んなものが一斉に別な軌道、あるいは無軌道に動くとき、それを俯瞰で見れて、全体を見て取れる力のことです。

この能力って、バッハなんか鍵盤で弾くときも必要なヤツなのかも? バッハって…昔ながらにピアノをしっかり勉強するって時に、定番の教本があってよく練習されるんですけど

複数の異なった旋律を同時に演奏するんです。2つとか3つとか4つ、時にはそれ以上の別々なメロディを同時にひとりで鳴らす意識…あるいは脳の働き。

かなり複雑ですよね。得意不得意も別れる分、好き嫌いも別れますが

それが時として演奏をする側にも聴く側にも、何とも言えない恍惚感や高揚感をうみだしたりもします。

音楽でいえばオーケストラの指揮者だって…色んな楽器の違う音色、旋律の動きを同時に捉えるわけですから、ちょっとすごいなぁと思います。複雑な脳の働きが…一体どうなってるんだろう?

そして指揮者のみならず、それぞれの楽器の奏者が、他の音や動きも感じつつ、自分のパートを演奏する訳ですね。。サッカーに求められる動きと少し似ていませんか。


その、色んな違う動きを同時に認識するっていう能力というものは、音楽以外にも、色んな場面や職業でも、必要とされるし、かなり役立つのではないかと思うのです。

仕事でも生活でも色々。例えば車の運転や料理、保育とか…作家とか…医者とかトレーナーとか、株とか、マーケティングにしろ、絵とか宇宙科学とか他にもきっといろいろ。

画家だと例えば

表現したい対象が実際には目の前で同じ枠に入っていなくたって、その人の脳の中では沢山のものを同時に捉えられている場合があるかも知れなくて、それらは自分の絵や作品の中では一つの風景として統合した表現ができるかも知れない。イコール表面的なモノでなくて、ひとめで本質を表せたりするかも。

お医者さんで言えば、私達の身体の機能はとても複雑に絡み合っていて、1つの病気の現れだけで完全に治療するのは難しい事もあるかも知れない。精神とか脳の機能すら関わるかも知れない。

もしくは、団体スポーツの選手それぞれがそういう、全体を俯瞰する視点を持つ事でチーム全体が1つの有機的な一体感を持ち、結果、チームが強くなったり。

学校の先生であれば、子供の言葉には出来ない気持ちや、もしかしたら表現とは相反する気持ちも同時に存在するような複雑さを感じとれたり、ひとりでなくクラス全体の動きを感じるなど…。



視野が狭いとか、逆に視野が広いとかって言葉は、ただの視野の広がりのことより意義が広く、心のあり方みたいな所まで言い表しますよね。

このnoteでは視野が広い事の良さを言っていますが、それってイコール心の広さというか…思いやりなんだと思うんです。見えない所まで気をつかえるかつかえないか、で仕事が出来る人と出来ない人に別れるように思うんですよね。

色んなことが見えるってことは、それだけ心を配れるってことと同義だと思います。思いやりってチンプな言葉になっちゃうけど、やはり大事だなと。




それらの、見えないモノを察知する事って、精神のお医者さんやカウンセラーさんだったら普通にやっているような事なのかも知れませんが、皆んなが皆んな、正解が簡単に出せるような問題ではない…ですよね。

仕事とか人との関わりで、何故か上手くいかないって時は、表面の表れにばかり囚われて対応してしまう時だったかも知れません。察知することが出来なかったし、何がダメなの?と原因も分からなかった。

例えばAIを使って、正確な分析とか計算ができたとしても、見えている所の情報を扱うしかないので、対象物の本当の全体を把握するのは難しいかも知れない。

表面の皮一枚内側にある、目には見えない複雑さと絡まりに気づくこと、その感受性は大切で、経験も大切で…。そうできたとき、ほかより一歩先を捉えた動きに繋がるのではないか。

AIにはなかなか出来ないことが、人間には出来るって事の違いがもしかしたらその辺にあるのではないか。

(もしかしてそう言う事が出来る人が頭いい人なの?そして歴史上、天才とか呼ばれたりする人達なのかな??分からないけど。)

表面に出ている所だけで判断したり、あるいはひとつの動きを追うだけではなく、

全体として複雑に機能しているモノや身体を感じとり把握し、そして対応できる事は、私達の人生のあらゆる場面で役に立つのではないか…。

そんな人がもしキングダム(漫画)に登場したら確実に戦局を捉える将軍として、すごい活躍をするだろな…。キングダム面白いです。


…そこでです。唐突。

私達はどうしたら、そういう複雑なモノを同時に感じる視点を持つ事が可能になるのか(キングダムで言えば、大将軍になれるのか。)

それを考えた場合、

このnoteの題名にもどるのだけど、小さい頃から自然の中に身を置いたり、遊ぶことが大切で近道ではないだろうかと思うわけです。

子供が自然の中、里山などで遊ぶとき、そこにはあらゆる物が同時に存在してしかも別な動きをしています。

積極的に関わろうと関わらずとも…意識はしていなくても圧倒的に取り囲まれるのですから、それには身体全体、心全体が反応するだろうと思います。危険だってあるから尚更。


そこでは太陽が照り、雲が流れ、風がふき、鳥が飛び、川が音を立てて流れます。

草が揺れ、虫を見つけ、花を摘み、色々な鳥の声も聞こえている。

稲穂が騒めき光り、眩しいかも知れない。カエルの声が聞こえ、木々がザワザワしていて

そのうち空の色が変わってくる。お腹がすいてくる。

道に迷ったときの恐怖、かき分ける草の音…滑って転んだ動きや痛み。

自分の足音や心臓の音すら重なり、更に複雑なリズムと音色と風景を形作ります。

そして無事に帰ってきたときの安堵感や家族の顔。自然の中で自分の命も実感するかも知れない。

(余談ですが、たけのこ取りで迷った経験ありますか?背の高いヤブなのでそりゃ恐ろしいんですよ〜〜。)



自然の現象はたくさんが同時に起きていて、決まった律動を持つものがあれば持たないものもあり…とても複雑で…

予測が不可能な豊かな動きをそこに見せてくれます。

五感が研ぎ澄まされるとか、ありきたりな言葉で言ってしまえば簡単ですが 笑

ありとあらゆるものの存在を、動きを、そしてその中の自分を感じとる事で、そして心が動く事で… 身体や脳に、否が応でも深く染み込むものがあるのではないだろうか?

身体が丈夫になるとか、運動能力とか、危険予測ができるようになるとか、遊びを作り出せる創造力がつくとか…外遊びの効能は沢山あるのだと思うけど

そのような具体的な良い事の他にも、目に見えないような大切な事が実は身体のもっと内側でも起こっているのではなかっただろうか?

具体的に言えば、脳細胞が刺激を受けて増えるってことかも知れない…それは私の想像ですけど、でも空間認知能力とか確かに向上しそう。

そういう力はバーチャルやゲームでも向上するだろうという人もいるかも知れませんが

人が命のあるものな限り、やはり命のあるものに会うことでそれらとの関係を作っていくのが、脳と心の学習が結びついて、深く影響するのではないかと思うわけです。

そんなことをいろいろ夢想をした今日でした。


私の場合、子供の頃から自然の中で遊び、ゲームも家には無くて、テレビはよく見ていたけど。あとはピアノ。

夏休みに母の実家に行けば川で泳いだり沢蟹とったりしてイトコらと遊んでいました。今思えば良い環境だったですね。

だから意識しないうちに自然から広々とした視点を多少は貰えていたのかも知れないと思う。それでも役立てられているかといえば怪しいけど…

まあ、多少なりとも役に立ってるのかもって場面は、広い場所でピアノを弾く時とか、車の運転かな…。意識が広ければ広いほどメリットを感じます。あとは、山菜や野花などを見つけるのもめちゃくちゃ早いですよ。

走る電車からでも野苺とかワレモコウの花とか見つけられる、みたいな感じ…。マジです。

子供と関わる仕事の中でも、子育てでも、少しずつ役立ててきているのかも知れないです。あまり意識したことは無かったけど…


うちの子も、もう小3。小さい頃からゲームやらテレビやらに触れる機会が上の子供より早くて多かったなぁ。これは下の子あるあるだろうな。

これからどれだけ外で遊ばせることが出来るか…と考えれば、うーん。難しいけど、とりあえずはやはりサッカーで。

それで時間を使う事でなるべくゲームやめられるし、なるべく視力を戻しつつ、広い視点も得てもらいたい(よくばり)

いまは姿勢も悪いから、身体を沢山使って楽しく運動してもらおうと思います。とりあえず。

先日はちょっと遠い河川敷の芝生で練習だったので、車で行ってきました。山も空も青々として気持ちが良かった。普段インドアな私だから尚更そう思いました。

ちょっと今更感はあるんだけど、気付いてからやれば何でも遅いってことはないだろうと…。

これから先、どんどん自然の中で遊ぶ事は叶わなくなってくるかも知れない。

その中でどうやって子供たちの生き生きとした体験を守っていくか、工夫して行くか、もしくはそれに代わる何かを探すのか… 未来に向けての課題でもあると思います。

ここは田舎で山が近くて自然は多いし夜にはカエルが毎日ケロケロ鳴いているけど、それでも子供が自分で行って遊べるような場所はなかなか無くて…。人工的な小さな公園くらいです。

多分、便利さに目を向けてそういう視点がないままに開発してきているのかと… 田舎にいても自然との接点が全くと言っていいほどありません。農家さんも減ったし里山も近くには、なくなりました。

自然と言っても、手を入れて管理していないと子供が遊べるような場所になりませんから、人とお金を投入して意識して作っていく事がホントは必要なんだろうと思います。

子供らが楽しく過ごせる場所なら、大人やお年寄りにだって優しい場所なはず…。

田舎なのだから、ただ散歩するだけでも、ちょっとは自然に触れられるような心地よい良い場所があればなぁ…と思います。何だか、せっかく近くにある自然が勿体無いような…気持ち。歩く所アスファルトしかないです。

このことは本当に昔から痛感してるというか切実なんです、私的には。田舎なのになぁ…(しつこい)

長くなりましたが、というわけで

少しずつ… 子供も私も旦那も、自然の中にいる時間も増やしたいな〜と思っているこの頃です。




素朴な草花の素敵な写真をhanakokoroさんからお借りしました。ありがとうございます。




















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