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愛は太陽の光ー愛されてない人なんていない
私は、愛とは太陽の光と同じようなものだと思っています。それは、私達の基盤となるファンダメンタルなもの。それは、誰にだって平等に降り注ぐもの。美人の方が、イケメンな方が、天才の方が、高収入な方が愛される、、、、なんてそんなことありません!!!愛は誰にも等しく十分に降り注いでるものです。それはまるで、私達を照らす太陽のようなものです。どんな時だって、宇宙を感じれば、その暖かさを感じられます。愛されていない人なんていません。たとえ自分がどんなに何の役にも誰の役にも立たないように感じられても、どんなにこの世界の邪魔者に思えても、太陽に、光に、照らされて、存在しているだけで、とてもとても愛されています。宇宙から無限で無償の愛を受け取っています。そのことを讃え喜ぼうじゃありませんか!
私がこう考えるようになったのは、自分は愛されないというような喪失感を味わって苦しんだ経験があるからです。ここからは、私がこのように考えるようになったきっかけである幼い頃の話をしようと思います。しばしお付き合いくださいまし。(飛ばして全然大丈夫👌)
私は小学生時代まで、多くはお手伝いさんに育てられていました。朝は掃除担当のお手伝いさんと幼稚園に行き、お迎えは料理担当のお手伝いさんが来てくれました。そして両親が仕事で忙しく、遅くまで帰ってこない日は、夕方からアルバイトの大学生のお姉さんが私の世話をしてくれました。ここまでの話を周りの人にすると、裕福な暮らしをしてきたのね、いいわね金持ちは、なんで反応をされます。だけど、実際は違うんです。とっても苦しいんです。だって彼女たちが私の目を見ることはないから。お手伝いさんやシッターさんというのは基本的に金で動きます。当たり前です。でも私はそれが辛かった。割り切ることが出来なかった。慣れることが出来なかった。私に向けられた笑顔も、優しさも、気遣いも全部金。そう思うと涙が出てきた。しかも、お金も私の力で稼いだものではなくて、両親の経済力というのもつらかった。
具体的に自分が経験した、その典型例を一つ書きます。これは私が小学校3年生くらいだったある日の午後6時。母からお手伝いさんにメールが届きました。それは、「あと1時間で帰るので、もう家事も終わってるでしょうから帰って下さって構いません」というものでした。しかし、お手伝いさんは私に言いました。「こんなメール来てるけど、あなたが心配だから帰れないわ、最近治安も悪いし、お母さんが帰ってくるまで、一緒にいてあげるからね」
これはどういう意味か分かりますか??
時給が欲しいんです。
彼女はただ時給が欲しいんです。
そんなことない、本当に心配していたかもしれないじゃないか、と思うかもしれません。確かに過去にそういう場合もありました。しかし、この時は違った。目を見ればわかるんです。相手が何を真意としているかなんて。なにせ物心ついた時こんなことばかりやってたんだから。自信があります。
これが辛かった。相手は自分に情があるフリをして、金が欲しいんです。でも私がそのことを指摘したら面倒な事になると思って、毎回その真意には気づかないフリをしてうまく帰すんです。決して「もう帰っていいよ」なんて直接的なことは言わずに、笑顔で「私は、大丈夫だよ〜、この家はセキュリティもしっかりしてるし〜」なんて呑気なフリしてポアポア言うんです。今考えれば、そんな気を使う必要無かった(笑)今だったらもっと冷たくしちゃう。
机に置いてたお年玉を盗まれたこともあります。(これは私の管理不足で私も悪い)でもそれを言ったら、その人がクビになるんじゃないか、それはかわいそうだ、次の人を探すのにも手間を親にかけてしまう、そんなことを考えて周囲には言いませんでした。それどころか、家に来た、お金の管理にうるさい祖母(笑)に「私があげたお年玉どこにやったのよ、もしやあの手癖の悪そうなお手伝いさんに盗まれたんじゃないんでしょうね!!」なんて言われても「私がもう使っちゃったんだよ」なんて言ってました!!!なんだかんだ自分は好きなっちゃうんですよね、情が湧いちゃって守りたくなっちゃうんですよね、お手伝いさんのこと。その、お手伝いさんとの愛の一方通行感も嫌でした。(勿論全員が全員このような事をするわけではなく、誠実な方も沢山いらっしゃいました。)
そして、病み気味な私はこんなことを考えていました。
「もし親に何の経済力もなくて、私が1人道端に立って泣いていたとしても、この人達は、私に見向きしないどころか嫌な目で見てくるんだろうな。だって私には、彼女達を振り向かせるお金もなければ、魅力もないんだから。」
「私は、決して愛されてなんてないんだ。でも、欲張りかもしれないけどママやパパ以外にも無償に愛されたい、でも無理なんだから、そんな世の中甘くないんだから、そんなこと考えるなんて赤ちゃんなんだから」
そうしてこんなことを考えながらもがき苦しみ、光を探す中で、境地に辿り着いたんです。自分の中で気づいたんです。誰かに愛されていないと自己価値を感じられないという、自分の持っている「愛」の定義に問題があるんじゃないか。別に誰に愛されなくても、誰だって愛されている。愛がなければ、私が生まれてくることも無かった。愛は誰にだって等しく降り注いでるから他人に愛されなくても気にすることはないんだ。こういう風に考えを変えることにしたんです。
これを聞いて、それは私の考えで、捉え方でしかないじゃないかと思うかもしれません。でも、『愛とは何か?』という問いに正解なんてあるんでしょうか?私は、無いと思います。だったら、ポジティブに捉えたもの勝ちなんじゃない?と私は思うんです。その人が信じていることがその人の真実。だって答えはないから。信じてることがその人の真実、believing is seeing です!(笑)
そもそも光が無ければ私達は生活できません。日の出、日の入を周期に取り入れて、太陽の光からビタミンDを作って生きてます。光が無ければ植物が育ちません、植物が育たなければ草食動物が育ちません。草食動物が育たなければ、肉食動物も育ちません。人間も然りです。でもその存在は余りにも当たり前すぎて、fundamental過ぎて、その存在を素晴らしいものとして認識してないかもしれません。愛もそういうものです。余りにも基本にあるからこそ、見えなくなってしまうのです。でもそこには、しっかりとあるんです。曇りの日に太陽は見えないけれど確かに居て、私達 地球をしっかり暖めているように。太陽が無かったら地球はマイナス何千度にもなってしまいます。私達をしっかりと、その大きな大きな体で、大きな大きなエネルギーを使って、惜しむこともなく暖めてくれているんです。愛もそういうものなんです。
それに気づいたら、安心、ホッとしませんか?
みんなさんの心が今日も愛で満ち満ちますように
Always love you❤️
最後に、誤解があるといけないので言っておくと、私は、先に述べたような経験ができて心から自分は幸せだったと思ってます。確かに、その時は辛かったですが、みんなが経験出来るわけではない貴重な体験ができました。沢山の他人と物心ついた時から関われたお陰で他の人に比べて、人の心の深いところまで感じられる人間になったと思います。本当にこんなことを経験できた自分は幸せ者としか言いようがありません。 今、お手伝いさんを恨んでるなんてことは、一ミリたりともありません。なにせ10年以上も前のことで、もう彼女たちがどこで何をしているか分からないし、中にはもう亡くなってる方もいるかもしれませんが。むしろ、沢山の世界を私に見せてくれて、ありがとうと言いたいです。どんな人にも無償の愛を私は届けたいです。今幸せだったら私も嬉しいです。生まれ変わってもこの家に生まれて、同じ経験をして沢山学びたいと思うくらいです。というか、私はこの家を選んで生まれてきたのかな?と思うくらい、私の人生のテーマである「愛」に関して彼女たちは沢山のパースペクティブを与えてくれました。
皆さんは、私の人生になくてはならない大切な大切なピースの一つです。皆さんが居なかったら、今の私になれようがありません。この場を借りて、、、、本当にありがとう😊
また、これは子育てとキャリアの両立に苦しむ親御さん、特にお母さんに、働くお母さんの元で育った1人の子どもの一意見として、伝えられたらと思うのですが、私は、あの時母が、父が、自分の好きな仕事に打ち込んでくれて心から良かったと思っています。
私が苦しんでいるのを見た両親は、特に母は、仕事を辞めることを本当に真剣に考えてくれました。今でも覚えています。タクシーの中で、「あなたの為なら仕事はいつ辞めてもいいと思ってる。お迎えが自分だけお母さんじゃないのは嫌だよね、お手伝いさんも本当は嫌だよね、ごめんね」と本当に真剣な眼差しで言ってくれました。私が「それは大丈夫だよ」と言ったんです。私のせいで、自分の母が母の一度きりの人生を私のお世話なんかで終わらせて欲しく無かった。才能を生かして欲しかった。ママは私のお尻拭きなんてしてる場合じゃないでしょ!と思ったんです。そして、私のこの時の選択は正しかったと思っています。また、こうやって子どもの意思を聞いてくれて本当に良かった。勝手にかわいそうだとかおもってなんの相談も無しに仕事辞められてたら嫌です。だって、大人になって、「私は、貴方のために仕事を辞めて貴方のことを1番に考えてきたのよ」とか言われたら、正直ダルイ。いや頼んでねーよ、オイラのせいなのかよ!!っていうか、仕事犠牲にしてまで育てられた子どもとして生きるの責任おも!ってなる。私はね。 どんなに幼くても、なんの脳もないように見える3歳児でも、1人の人として対等に、真剣に、「私に仕事辞めて欲しい?だったら今すぐにでも辞めるけど?」と聞いてくれた母には感謝しかないです。
なので、これは個人的な意見ですが、子どもが生まれても、自分の好きな仕事をできる範囲で、したいところまでしたら良いと思います。また、子どもが生まれたから仕事を辞めた場合は、本当に子供の「為に」やめたかを自問自答するのが大切だと思います。そして、本当に子どもの「為」なのなら、子どもの言う通りにしなくてもいいので、子どもに聞いてから、最終判断をした方が良いと思います。なぜなら、子どもを言い訳に使って本当は仕事から逃れたいだけという場合があると思うからです。その場合は、きちんとその事実を自己認識して、子どもの為にやめた!みたいな正義感?は持つべきじゃないです。それは子どもの成長の妨げになると思います。子どもが生きる上で、責任が重くなります。母のキャリアまで背負って生きてるみたいな。そこの見極めが最も大切だと思います。「本当に子供の為なのか」。勿論、日本には、キャリアと育児を両立させるのが難しい現状があって、仕事を辞めるのを否定しているわけでは全くありません。ただそれが何の、誰の為なのかをはっきりさせるのが重要だと思います。
Have a lovely day😘