「障害」の重みに悩む方へ
ご訪問ありがとうございます。今このページにいらっしゃるということは,あなたは,障害に対してに何らかのネガティブな感情――不安であったり,絶望であったり――を感じられているのでしょうか。
突然ですが,「障害」って何でしょうか。
身体障害,視覚障害,発達障害,知的障害,記憶障害,パーソナリティ障害,etc...
いろいろな障害の種類がありますが,結局のところ,障害って,何でしょうか。
英語で見てみますと,次のような単語が該当します。
・impairments(機能の損傷)
・disabilities(できない)
・handicaps(社会的不利)
・dysfunction(機能不全)
・disorder(秩序が欠けた変調)
・inability(能力欠如)
・hard(困難)
これらは実際に,過去に私が編集担当した翻訳書内で,「障害」と訳した英単語です。
例えばhardは,もちろん文脈によっては「困難」や「つらい」などとも訳しますが,「障害」と訳す場合もたびたびあったということです。
改めて,日本語の「障害」の広さに驚きました。
英語の原著ではせっかく事細かに上記のような単語を使い分けていたのですが,日本語に翻訳する際に,原著者に申し訳ないほどに,あれもこれも結局「障害」という1つの言葉になってしまいました。
障害とはこれほど広い概念です。そのため,障害とは何か分からなくなるのも,仕方ないことに思います。
障害が何かという話の中で,たまに,病気と対比して,「病気は治せるが障害は治せないもの」「病気は後天的で障害は先天的」などという表現も見かけます。
しかしこれは誤りです。治せない病気もたくさんあります。リハビリ等で状態が改良する障害もたくさんあります。交通事故等で後天的に障害を生じることももちろんあります。
そもそも,障害と病気は対比できるものではありません。
それでもあえて,この2つを定義するならば,次のようなものでしょうか。
・病気は,体に悪い変化が生じていること。
・障害は,社会的な妨げで社会的不利が生じやすい状態。
障害は,病気のように悪いことが生じているものとは限りません。悪いかどうかの話ではありません。社会の中で生きようとすると「不利」が生じやすい状態ということです。
さて,ここまで障害とは何かというお話をしてきましたが,私の結論は,日常生活において障害の定義は必要ないというものです。広い概念ということと,不利が生じやすい状態ということさえ踏まえていれば,それ以上の定義の必要性が感じられないのです。
行政などが管理・分類・区別するためには,障害の定義は必要かもしれません。しかし,それ以外で,日常で,家族間で,友人間で,そこで営む中で,障害とは何かということは,必要ないように思うのです。
何らかの社会的不利があり,それを埋めるためにどのようなケアが必要かを考え,実践するということ,
それで,すべてではないでしょうか?
例えば,教室の黒板(会議室のホワイトボードでも何でもよいですが)に書かれている情報を理解できないという「社会的不利」(「ハンディキャップ」「機会損失」)があるとします。
不利なので,不利でなくなるように,ケアが必要です。
なぜ理解できないかというと,どうやら視力が弱いために,書かれているものが見えないようです。
さて,この場合のケアは何がよさそうでしょうか。
見えないなら,誰かが読み上げてはどうでしょうか。
近視で近くは見えるのであれば,黒板の近くに座らせてあげればよいのではないでしょうか。
そもそも,めがねという補助具を与えてはどうでしょうか。
あるいは,黒板の情報を理解できないという先と同じ社会的不利でも,人によっては視力の問題ではなく,文字をまとまりとして認識できないことに原因がある場合もあります。
この人には,おそらく,黒板の近くに座らせることも,めがねを与えることも,解決には繋がりません。誰かが読み上げるというケアであれば,よいかもしれません。そのほかにも,例えば文字のまとまりが分かりやすくなる書き方をしてあげるなど,先とは違うケアが必要そうです。
あるいは,黒板の情報を理解できない原因は,書かれている文字言語を知らないという場合もあります。これは,単純な知識不足(知識を得る機会の不足)が原因です。
この場合必要なケアは,理解するための知識を与えることかもしれませんし,翻訳してあげることかもしれません。
何らかの社会的不利があり,それを埋めるためのケアを行う。そのために,どのような原因があるかを知る。
繰り返しになりますが,それがすべてではないでしょうか。
わざわざ「障害」という言葉を使って考えなくても,日常のケアでは,特に不都合はないように思います。
障害は,立場上,何らかの管理・分類・区別する必要がある人だけが使えばよいように思います。
たとえお子さんが発達障害と言われたとしても,「障害」の言葉にショックを受ける必要はない,・・・というのは思いやりに欠ける表現かもしれませんが,
「障害」にフォーカスを当てることよりも,「では,どのようなケアを行えば?」と考えることこそ大切ですし,実際必要なことも,それがすべてかもしれません。