「正しい」は使わないほうが良さそうだ
からだについてお話する時に気をつけていることがある。
「しっかり立つ」「ちゃんと伸ばす」「正しい姿勢」という言葉は、短い言葉でむちゃくちゃ便利なのだが、特に講演会では意識して使わないよう心がけている。
「ちゃんと」とか「しっかり」などいう言葉は幅があるように感じていて、それは「正しい」も同様に。人それぞれその定義が違ってくる言葉のように思っているからで、そこには、自分の当たり前や思い込みや決めつけが存分に含まれた言葉のように思う。
親が子どもに「ちゃんとしぃや!」と言う。子どもは「ちゃんとしてるのに!」と拗ねる。この場合、会話としては成立しているようでしていない。私のちゃんととあなたのちゃんとは違うというわけだ。違うということを知らないと、永遠に平行戦というやつになる。ただ話してみれば「あぁそうだったの」とあっさり分かり合えたりもする。
仏教学者のひろさちや先生から「正しい」の「正」の字は、もとは「征服」の「征」の字からきている。みんな自分の正しさで生きている。それだけならいいのだけども、正しさを主張するようになると、自分と違うということは「間違い」だと定義していることになると。だから正義のために戦うということになるのだと教わった。
よく使われる表現に「しっかり立つ」というのがある。「しっかり」ってどういうことなのでしょう?
「ではみなさん、今から姿勢のチェックをしましょう。まずは、しっかり立ってみてくださ〜い」と言うと、ある人は、両手両足をピタッと体側につけて、腰を反らせるようにして胸をピンと張って息を止めている。ある人は、目を大きく見開きながら、鼻から息を吸って、頭から紐に吊り下げられているかのようにて立っている。そのうち息が吐けなくなって、あぁもう無理となる。また、ある人は足を左右に広げて膝を緩めて腰を落としている。これなら押されても動かないだろと「押してみろよ」と、言わんばかりに鼻の穴を膨らませるなど個性が揃う。このように「しっかり立つ」は、一人ずつ「しっかり」が違ってくるようだ。
もし「しっかり立つ」を「安定している状態」と定義したときにも、その安定とはどう言う状態なのかということについて説明しないとならないだろう。
例えば、横から押されても横から動かない状態だとか、全く動かないのではなく、上半身が押された分だけ動いたとしてもバランスを崩さない状態だとか説明しても、まだまだ足りないように思う。押された時に、力で反発する抵抗力を感じず足もとはふらつかない状態。などの表現が必要になってくるように思うが、残念ながら私の文章表現は未熟であるためこれ以上を説明することができないので、レッスンで体感してもらうことにしている。
体感したことが、本人のこれまでの思っている「しっかり」と違うとなったとき「あれっ」っとなって、脳が一瞬パニックになっているようで、私はこの状況を「新鮮な驚きとショックがきたようです」とか言っている。どうもこれまでの「しっかり」はちょっと違ったんだとなるようで、意識の書き換えが起こるようである。知識ではなく、言葉ではなく、からだで「あぁ知らなかったぁ」を味わった時に。
そしてその理由がなぜかを聞いて「なるほど」と腑に落ちた時、コツを掴むような気がしている。そして繰り返しやってみることで、コツ=骨を粉にする(こなす)となり、身につくのではないかと思うのです。
(からだのことば研究会)
※居所(奈良)より、春日山原始林、高円山からの日の出 6:30