”能動的”に愛の有る「相手のための選択」を行使すること。

【記事のまとめ】
どの主義が正しいということはなく、どの主義に属そうとも豊かさの最大化は可能である。しかし、あなたの選択によっては豊かさが増減する。様々な選択肢の積み重ねの結果、現在の豊かさが推移する。豊かさの最大化のためには、「個人の自由」を愛の有る「相手のための選択」に行使することが一番効果的である。

上記の記事では、愛の有る「相手のための選択」が豊かさを最大化するために効果的であるという結論に達した。
しかし、これを実践していくうえで、この選択というものも、2種類に分岐することに気が付いた。
”能動的”であるか”受動的”であるかだ。

”受動的”

”受動的”に愛の有る「相手のための選択肢」を行使することはパターン化することができれば容易い。
相手の言語や態度から発せられた信号を読み取り、望まれた行動をする。
利他に徹することで、豊かさを高めることは実現可能である。滅私奉公だ。
しかし、家族に対しこれを意識し始めて4か月ほど経ち、ふと思った「なんか面白くない」

愛の有る「相手のための選択」を行使することは、豊かさの最大化は望める。しかし、”受動的”に行動することには、自身の豊かさが変容することが分かった。
これが、主従関係であったならば、主に使えるその対価として、保護が得られる。「なんか面白くない」と感じることはない。自身の生存のために必要なことであるため、豊かさは最大化される。

しかし、この関係が家族となると話は異なる。
あくまで私の家族は、主従関係でもなければ、参照関係でもない。ましてや依存関係でもない。共同体ととらえている。

家族(かぞく、英語: family、ドイツ語: Familie、フランス語: famille)とは、 夫婦や親子という関係を中心とする近親者によって構成され、相互の感情的なきずなに基づいて日常生活を共同に営む最も小さな共同体である。

wIKIより参照

ここで柄谷行人の交換様式も補助線に置く。

〈交換様式〉は、柄谷さんが編み出した独自の概念だ。社会のシステムを交換から見ることで、四つの交換様式を見いだした。その四つは、A=贈与と返礼の互酬、B=支配と保護による略取と再分配、C=貨幣と商品による商品交換。Dは、Aを高次元で回復したもので、自由と平等を担保した未来社会の原理として掲げられている。歴史上にあるDは様々な形を取るため、柄谷さんは〈X〉と呼んできた。

https://book.asahi.com/jinbun/article/14748689

その他の家族の形もあるとは思うが、私の家族の認識は共同体というのが一番しっくりきている。
交換様式の軸において、共同体は両者の関係が平等であるため、右側に位置する。
共同体においても、豊かさの最大化を目指す選択は、愛の有る「相手のための選択」であることには変わりない。
しかし、共同体にて”受動的”にこの選択を行うと、主従関係による「支配と保護」のような、半自動的な相互利益を得ることは難しい。

極端な話、いくら妻がお金が欲しいからと言って、私が”受動的”にATMに徹することで、私の豊かさは上がるかもしれないが上がらないかもしれない。

”受動的”の問題点は、贈与した側への返礼が不明確な状態となりやすく、両者でずれが生じてしまう点だ。
妻がお金が欲しいと言い、私が”受動的”にATMに徹した時、そのお金は、質の高い食事に使われるかもしれないし、私的利用されるかもしれない。
質の高い食事を提供され、豊かさは上がったとしても、因果関係が不透明であるため、気づくことが難しい。
信頼関係を築けていれば問題ないように思われるが、受動的な共同体の舵取りにより座礁した時、乗組員のあなたは他人のせいにせずにいられるだろうか?

この私が感じた「なんか面白くない」という原因は、共同体の性質である、関係が平等な状態において、”受動的”な選択をするという行為のためであった。

不平等な立場での、【B略取と再分配】と【C商品交換】においては、”受動的”な選択は肯定される。安全に暮らすために指示に従うや、このサービス・商品を得るためにお金を支払うといった例だ。
これは等価と相互の中で基準されており、能動的・受動的という行動の原点は明確には存在しない。卵が先か鶏が先かと同じだ。

しかし、平等な立場において”受動的”であることは豊かさの最大化において相互理解不足による不和を生じさせる。

「あなたのために我慢してやっていたのに、なぜあなたは返してくれないの?」
「私は尽くしているのに!」
「金ならあげてるだろ!何が不満なんだ!」

これが起こる。
平等な関係において我慢は本来必要ない。勝手に我慢しただけだ。
相手の望み関係なく、勝手に尽くしているだけだ。
金をあげればいいと思っているのが理解に欠けている。

これら全て、”受動的”であるが故に、相互理解に欠け、愛の有る「相手のための選択」を行った結果、不和が生じたパターンだ。
そもそも相互理解が欠けた時点で、愛の有る「相手のための選択」とはならない。
”受動的”であることは、自身の面白みと相手との不和を生み、豊かさの最大化を困難にする場合が存在する。

話は外れるが、共産主義の失敗する理由として、まじめに働いた人も怠けた人も同じ報酬しか受け取れないのであれば、誰もまじめに働かなくなってしまうというものがある。「やりがい問題」だ。
真面目に働いていることがばかばかしくなり、国家にただ乗りをする人が増加し失敗するというものだ。
この行動の原理を突き詰めれば、”受動的”で愛の無い「自分のため行動」が蔓延している状態といえるだろう。国家と国民同士適切な交換は行われず、国は崩壊する。

では、”能動的”に愛の有る「相手のための選択」を行うことはどういうことだろうか?

”能動的”

先ほど”受動的”にATMに徹することは自身の豊かさは、上がるかもしれないが、上がらないかもしれないとした。
では、”能動的”にATMに徹することで豊かさは上がるのだろうか?
その答えは、必ず上がる場合が存在するだ。

ここでの”能動的”というのは、妻が私のお金から食費を賄うと仮定する。
【私の目的は豊かさの最大化であり、食の質の向上は私にとっての豊かさと直結する。よって、ATMになることが肯定される】というような例だ。
ここでの関係は交換様式の【A互酬】。ATMになったことによる質の高い食事といったような贈与と返礼に値する。
贈与に対する返礼が明確化された場合に限るが、豊かさは増加する。
この例であると、【C商品交換】のように思われるが、実際、共同体の中の立場は平等であり、決まって等価である必要もないため、【A互酬】となる。

つまり、両者「ATMになる」という行動は同じであるのにもかかわらず、”受動的””能動的”という点において、豊かさが変容する。

しかし、”能動的”という行動には、”受動的”と違い、結果が予測されにくいという問題点が存在する。
能動的に行動を行った以上、そこから生まれた結果には責任が伴う。

”能動的”に愛の有る「相手のための選択」は、利他と利己の融合を目指す行動である。利己から駆動するエンジンではなく、利他から駆動し利己へも恵のあるような互恵的利他主義的な行動が豊かさを最大化する。
しかし、そこから生まれる結果は”受動的”であるものと比べ、予想しずらい。結果が相手にとっての望ましくないものであった時、その結果には責任が伴う。
そのため、責任を取るため負わないためにも、結果をある程度予測可能な状況へと進める必要がある。
個人の相手への深い理解が必要であり、そこには愛を要する。

人間であることは、自分の意志をそこに据えながら世界の建設に参加しているのだと感ずることである。

サン=テグジュペリ

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