物語-日記/noteを書く意味についての思案
物語を書くということについて最近よく考える。
小さい頃から、捉えた感覚を言葉で紡ぐことが好きで、ずっと好きだと思い続けられていることを聞かれたら"書く"ことと答えると思う。
大学生の時はいろんな場所に行って、たくさんの人と出会った。心が動く出会いが多く、「今しか感じられない温度感のあるうちにこの熱量と気持ちを記録したい」と日記などに留めていた。
社会人になっても、育てられて磨かれて、蓄積された感性はもち続けていたいと思いながら過ごしている。切り取る世界はだいぶ変わったけれど、社会に出たからこそ感じられることもある。
感じたことを言葉に起こすことで、あの時の忘れたくない、でもほっといたら奥に埋まっていってしまいそうな感覚を掘り起こして、握り直すことができる。そう思って書いていたけれど、最近はそれだけではない気がしていた。
そんなことを片隅で考えてたら、「物語をかく」ことについて記した本たちに出会うことが増えた。
新海誠がすずめの戸締りをつくる際、影響を受けたという村上春樹の作品。新海さんの言葉のようにも見えて、きっと近いものを二人とももっているんだろうなと感じざるにはいられなかった。考えを深めるには「下りる」プロセスが必要である、この表現とてもしっくりくる。
小川さんの考え、もっと知りたいなと思ってしまうくらい、一つ一つ腑に落ちた。
人生で深く落ちていた時期に、何回も見ていただいすきなドラマがあった。きっとどんな人でも、外で見えるその人と、ひとりである時のその人で違う一面がある。
当時の自分は、表層的に生きなければ外で生きていけない、ということをわかってはいたけれど、深いところのかなしみや機微を蔑ろにできなかったのだと思う。
表層的なものと底流しているものがつながっていないことは、小川さんのいう"心を一つの全体"にして生きられてない違和感だと感じていて、だからあの頃はドラマを通して表層と心をつなげていたのだなと。
「外界と内界」を結びつけ統合し、ドラマの中の彼らとつながっていたのだろう。そして物語の中の彼らに自然と投影され、癒され、救われ、そのことに惹きつけられていたのだと思う。
ドラマから与えてもらっていたことがまさにこういうことだった。
書こうとすることで、下りることができ、心と向き合うことができる。それがしっくりくるのだと思う。
ぱっとことばでまとめられない感情がたくさんある。そこに下りてアクセスできるのが物語なのかもしれない。書くことは自分やだれかを救うことでもあり、表現することでもあり、生きることでもあるようだ。