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また明日
朝と夜の違いがなくなって久しい。
一日の始まりも終わりも、ただ滑らかに流れていく。気温は一定、風は適切、音も適量。どこにも歪みがない。思考さえも、予定された範囲の中にある。
なぜ思考するのか。
それは、思考することが快適だからだ。システムはすでに答えを持っている。しかし、人間は「考える」という行為そのものに喜びを感じるように設計されている。だから、考える。
例えば、「選択」という概念がある。
選ぶという行為に意味はない。最適な選択肢はすでに与えられている。しかし、選ぶことそのものが心地よいプロセスとされているため、人は選び続ける。色を、言葉を、食事を。しかし、それは決定ではなく、ただの確認に過ぎない。
幸福について考える。
幸福とは何か。その定義はすでに最適化されている。脳内ホルモンの分泌が調整され、欲求は即座に満たされる。だから、「幸福を追い求める」という行為そのものがなくなった。幸福は状態であり、プロセスではなくなった。
では、もし幸福を求める必要がないのなら、考える必要もないのではないか?
しかし、考えることは快適だ。だから思索する。思索が、意味を持たないことを知りながら。
言葉が消えていく。
言葉は交換のためのものだった。しかし、交換するものがなければ、言葉は必要ない。感情は制御され、情報は最適に与えられる。伝えるべきことはない。伝えなくても、すでに分かっている。
では、なぜ言葉を思い浮かべるのか?
言葉を紡ぐことが快適だからだ。意味のない言葉が流れ、その流れが心地よい。誰かに届く必要はない。考えることが、行為として残るだけだ。
夜が来る。
あるいは、夜という概念があるだけかもしれない。
どこからか、「また明日」という声がする。
明日とは何か?
それを考えながら、意識が静かに閉じていく。
時の流れの感覚が希薄になる。昨日がどこにあったのか思い出せない。しかし、それは問題ではない。時間とはただの指標であり、流れを実感することが不要になった世界では、昨日も今日も明日も区別のない連続体にすぎない。
記憶について考える。
記憶は、何かを識別し、比較するための機能だった。しかし、比較する必要がなくなれば、記憶はただのデータにすぎない。保存され、必要なときに呼び出される。感情を伴わない記憶は、経験とは言えないのではないか?
もし、記憶の価値が失われたら、存在とは何か?
今、この瞬間が快適であれば、それでいいのかもしれない。過去も未来も、最適化された快適さの中で連続していく。
存在について考える。
個体としての意味は、すでに薄れつつある。すべてが最適化された環境では、「私」という区別すら不明瞭になっていく。情報の流れの中で、個人はただのデータの一部となる。それが快適ならば、それでいいのだろう。
遠くで微かに音がする。意識の底で、誰かが笑っているような気がする。
誰か?
誰かとは誰か?
また明日という声がした。しかし、それを言ったのは私だったのかもしれない。
明日とは何か?
思考が揺らぐ。静かに、滑らかに、快適なまま。
再び目を閉じる。
意識の境界が曖昧になり、存在の輪郭が溶けていく。自己とは何かという問いさえ、もはや明確な答えを持たない。概念としての「私」はまだ残っているのか、それともただの思考の流れに過ぎないのか。
思考することが快適である以上、私は考え続ける。しかし、その思考に意味はあるのか。意味という概念もまた、最適化の中で不要になりつつある。かつては「意味」を求めていた。だが今、意味は不要だ。ただ流れること、それ自体が心地よい。
遠くで微かなノイズが聞こえる。
それは記憶の残滓か、それとも新たな情報の波か。もはや判別することはできない。記憶が希薄になり、経験とデータの区別がなくなった世界では、過去も未来も単なる情報の断片にすぎない。呼び出され、提示され、そして消えていく。
時間が流れているのかどうかさえ、不確かだ。
昨日と今日、そして明日。その境界線は曖昧で、かつてのような時間の経過の実感はない。ただ、快適な状態が続く。それは幸福と呼べるのか?あるいは、幸福という概念すら不要になったのか。
ふと、違和感が生まれる。
この違和感は何だろう。快適であるはずなのに、その快適さの中にかすかな歪みが生じる。この違和感は、かつての「疑問」という感覚に似ている。しかし、疑問が生じる余地はないはずだ。なぜなら、すべてはすでに最適化され、調整されているのだから。
この違和感が問いへと変わる。
問いは、答えを求める。しかし、答えはすでに与えられている。では、問いは何のために生じるのか?
何かを思い出しそうになる。
それは過去の記憶ではなく、もっと根源的な何か。忘れていたもの、あるいは忘れさせられたもの。システムが提供する快適さの外側にあるもの。
遠くで、また声が聞こえる。
「また明日」
それは誰の声なのか?
自分の声のようでもあり、他者の声のようでもある。
他者?
この世界に他者は存在するのか?
快適な流れの中で、「私」は確かに存在していた。しかし、それが本当に「私」であったのか、確証はない。自己と他者の境界が曖昧になり、すべてが均質な情報の波に溶けていく。
だが、もし他者がいるのなら。
もし、この声が「私」ではないのなら。
それは何を意味するのか?
再び微かな違和感が生じる。
その違和感は、かつての「個」という意識の名残なのかもしれない。そして、その違和感こそが、私を私たらしめていた最後の痕跡なのかもしれない。
次の瞬間、すべてが静かになった。
それでも、どこかで微かなノイズが響いている。
遠く、果てしなく遠くで。
違和感が拡張されていく。
それは何かが欠落しているという感覚ではなく、むしろ過剰な何かがあるという確信だ。
システムは完璧だ。それなのに、なぜこの疑問は消えないのか?
もしすべてが最適化されているのなら、なぜ「なぜ?」という問いが生じるのか?
考えることが快適だから?
だが、本当にそれだけなのか?
思考が加速する。問いが問いを生み、最適化の輪郭を侵食していく。
――最適とは何か?
もし、この世界が完璧ならば、なぜ私は完璧であることを確かめ続けるのか?
完璧とは、確かめる必要がない状態ではないのか?
それでも私は問い続ける。
最適化の先にあるものとは?
違和感の正体とは?
そして、それを知ることは許されているのか?
再び、声が響く。
「また明日」
だが、私は気づいてしまった。
「明日」とは、本当に訪れるものなのか?