信じられるものがなくても、ただ”ありのまま”でい続けたい
信じられるものがない。
「信頼」って強さだと思う、今更。相手を信じて信じぬいていく何かがないとすぐに疑ってしまう。芯が通っていて、決して折れない強いものがなければすぐに壊れてしまうもの。そう思うと信じることはとても鍛錬のいることなのかもしれない。前に書いたNOTEの中に友人の話をしたことがある。彼女は嫉妬という感情をわたしにぶつけてきた。まだ純粋だったころ、とてもつらくて、人間不信になった。
「高校でできた仲間は一生の友達になる」と先生は言っていたけど、勇気を出してメールをした返事は返ってこなかった。わたしと彼女はもう友達ではなかった。
裏切られるくらいなら、はじめから信じないほうがいい、そう決めて大人になると優しい言葉や褒められることに拒否反応を示すようになった。裏に何があるのか?考え始めると素直に喜べない。「先輩の激励にはありがとうございますって言わないと」と叱られたこともあったけど、言葉をうのみにして何かがなくなるのはもう嫌だと思った。
意識しているわけではなく自然と体が動いてしまう。それほど疑う心が染みついてしまっている。
せめて表裏のない言葉で生きていたかった。だから自分にも厳しかったし、周りにも悪いところははっきりと言っていた。そのほうが相手のためになると本気で思っているわたしは、つまらないプライドというものに支配されていた。
”白”か”黒”はっきり決まらないと行動に移せなかったし、いったんはっきりしたものは間違っていたとしてもカンタンに手放せなかった。自意識の高さで誰もを堅く堅く縛っていた。グレイゾーンに置くことができる今は、少しゆるく物事を考えられるようになっている。
昔の自分は周りに傷つかないように体中に棘を這わして守っていくしかなかったんだと思う。それほど繊細に、どんな言葉にも影響されてしまうほど確固たるものがなかったから。今も傷つくことはたくさんあるし、つらい事もたくさんある。1面だけしか見ることのできなかった若いころとは違って、経験を積んでたくさんの視点を持つようになったことで多面的に身に起こる現象を受け止めきるようになった。あの頃の私はきっととがっていたんだろうな、周りからするとイタイほどに・・・。そんな過去は穴を掘って埋めてやりたい。
信頼され、信頼する関係が本当に大事なのか?わたしには解けていない。
ただただ1つのことだけにとらわれるのは時間が勿体ないのではと思う。信頼されないと人生終わりと謳っているものもあるけど、わたしは好きなことに時間をつかいたい。
何よりも自分に嘘をつかず、ありのままで普通の生活を送っていきたい