真剣な気持ちは「魔法の手」となって誰かの心に伝わる
看護学校での授業中「看護とは手と目で看て、護ることです。目で見るだけでなく手を取って患者さんを看ることができる看護師になってほしい」と力説されたことがある。まだ未熟だった私には自分の手でも誰かのためになれるのならば・・・と深く心を動かされた言葉だった。
そういえば子供のころ両親に頭をなでられたり、おなかをさすってもらうとなんだか元気が出て子供ながらに魔法の力がその手に宿っているのではとSFチックなことを思っていた。きっと手から伝わる心配や思いやりが自分の心に繋がってそう感じたのかもしれない。手から感じ取れる体温に安心をもらっていた。
手をかざしただけで元気になるというと胡散臭いスピリチュアルのような感じともとれる。現実主義の人には信じがたい事かもしれないけど、どうにも科学的な根拠で説明されない霊的なものは確かにある。子供のころに感じたこともそういうものだろうと思っている。
説明のできない現象が魔法という言葉に集約されて不思議な記憶になっていた。
昔のことを思い出したのも、感動する体験をしたからだった。
病院でアロママッサージをしている方を見学という名目で同行した。私は今ボランティアとして病院で働いている。今日は同じくボランティアで携わっている人の見習いをする仕事だった。たった10分のマッサージを5人の患者さんに提供していく。病室でラベンダーの香りがするオイルを滑らせながら両足をもんでいった。どの人も目を閉じて気持ちよさそうな表情をしていた。マッサージが終わったころには初対面のわだかまりは消えありがとうと笑顔を返してくれて、自分がしていることではないのに「いいえ、失礼します」と誇らしげに病室を後にしていた。
「足しかできないですが、リンパマッサージをして少しでも浮腫みが取れればなと思ってやっています」
と彼女は話していた。足の甲にあった浮腫みが彼女の手によって上へ上へと移動していくところを見て、”少しでも良くなってほしい”と本気で取り組んでいるだなぁと感じ取れた。彼女の手によって足が少しだけ細くなる、浮腫みを経験したことがある人はそれだけでもどんなに楽になるかわかるだろう。
それはまさに”魔法の手”だった。
何よりボランティアという立ち位置で熱い思いを持ち、取り組んでいる姿に彼女の専門性を感じた。
手は誰にだって当たり前にある。当たり前にあるからこそ手にそれほどの力があるとは考えずに日々使っている。
苦しんでいる人に差し伸べた手も、喜びでたたき合う手も大事な人を触れる手も思いを末端まで通わせ誰かに心を届けている。真剣な気持ちが力を宿し心に触れることが出来るのだろう。その思いに共鳴し、励まされたり元気づけられたりするのかもしれない。私たちの手のひらには目には見えない癒しの力があるのだと信じたい。目には見えない感情を伝播しているのだと。
忙しいのはありがたくも悲しい。人を元気づけたいという思いを私は忘れていた。結果ばかりにしがみつき、誰かの成功を嫉妬して大事なことを忘れてしまっていた。いや、忘れたのではなく切り捨てていたのかもしれない。
そうやってみんな心をなくしてロボットのように仕事をしていくんだろう。だからどんなに認められようとも嬉しく思えなかった。そんなことも気づかずにかすかな矛盾を感じながらも一生懸命働いていた。熱い思いを消した先に成功という幸せがあるのならば私はそれをもらわずに生きていきたい。自分の思いを貫き通し、この手で幸せをつかみたい・・・いつの日か。
些細な体験に昔の言葉と一致し、感動の興奮が冷めることなく今こうしてNOTEに書き連ねている。
パソコンを打つ私の手も
文字を通して強い思いが伝わっているものでありたい。
最後まで記事を読んでくれてありがとうございました!