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【プライド月間】ボサノヴァ、人種と同性愛 ジョニー・アルフの生涯

6月28日の国際LGBT+プライドデーの合わせて、6月はプライド月間
ブラジルでも6月11日、パウリスタ大通りにてLGBT+プライドパレード(旧ゲイパレード)が開催されました。

世界最大規模である同パレードには、LGBT+界で最も影響力のあるドラァグクイーンであるパブロ・ヴィタールや、バイセクシュアルを公表しているベテラン歌手ダニエラ・メルクリらが登場しました。

ダニエラとパートナーのマルー photo by Reprodução/Instagram

セクシャルマイノリティのアーティストは、現代のブラジル音楽シーンで珍しいことではありません。

今や世界的に活躍するアニッタはバイセクシャル。
昨年ラテングラミー賞サンバ部門を受賞したルジミーラはレズビアンで、SNSやステージ上ではパートナーのブルーナ(ダンサー/インフルエンサー)とノロケが凄い。

ルジミーラとブルーナ photo by Bnews

日本でもよく知られているブラジル人アーティストなら、アドリアーナ・カルカニョット、マリア・ガドゥ、マルチナリア、もう少し上の世代ならネイ・マトグロッソ、シモーニ、そして先日亡くなった国民的歌手ガル・コスタがセクシャルマイノリティであることを公にしています。

音楽業界だけではありません。
ブラジルの大人気コメディ映画『Minha Mãe É uma Peça』の主演で有名なパウロ・グスターボと配偶者のタレスは代理母から双子の子供を授かりました(残念ながらパウロは2021年に新型コロナウイルスの合併症により42歳という若さで死去)。

パウロ・グスターボ、子供たち、夫のタレス photo by Extra online - Globo

今やブラジルの民放テレビでセクシャルマイノリティのタレントやアーティストを見ない日はありません。
多様性に対して他の国よりも積極的なのは、ブラジルが移民の国であり、他と異なることを問題視せず、尊重できる気持ちが強いことも関係しているでしょう。

一方で、同性愛者嫌悪による殺人事件が多い国ということも事実。
ボウソナロ前大統領のように、露骨な同性愛者嫌悪発言をする人も沢山います。

前政権で、女性と家族の人権大臣であったダマーレス・アルヴェスは就任早々「男の子には青色!女の子にはピンクを着させるように!」と発言し、多くの反感を買いました(いつの時代だよ!)。

J.Boscoによるダマーレスの問題発言を取り上げたイラスト

こういった背景には偏見だけでなく、宗教や思想が絡んでいたりするので簡単に解決できるものではありません。

それでも、ゲイパレード(2008年にLGBT+プライドパレードに名称変更)が始まった90年代後半から現在まで、少なくとも都市部に関しては、セクシャルマイノリティに対する理解と尊重は以前とは比べ物にならないまで前進したと感じます。

|ボサノヴァが誕生した1950年代は?

それでは今から70年以上前のブラジルで、セクシャルマイノリティへの理解はどんな感じだったのでしょうか。

1949年のリオデジャネイロ photo by Jose Meseiros

当時のリオデジャネイロの写真を見ても、男性と女性の服装がはっきりとわかれているのがわかります。
女性はスカートが多く、パンツルックは殆ど見られません。

女性は結婚して家庭に入るのが一般的。
ポピュラー音楽界に関しては、女性が器楽奏者や打楽器奏者、作曲家として活躍することは非常に珍しいことでした。

1950年代に流行していた音楽は、サンバ・カンサォンと呼ばれるスローなサンバで、歌詞もロマンティック。
振り振られ、裏切り裏切られの男女の物語が定番です。そこには男と男、女と女というカップルは存在しません。

しかし1950年代後半から、少しずつ新しい兆しが現れます。

新しい首都ブラジリア建設による国の急成長に合わせボサノヴァが誕生し、その引き換えにやってきたハイパーインフレ、そして軍事独裁政権。
この時代を生きたナラ・レオンは、これまでの女性像を打ち破るような存在でした。

ナラは良家の娘でありながら、ミニスカートを履いて膝を丸出しにしてギターを弾いたり、ジーンズを履いてプロテストソングを歌ったりと、当時からすると破天荒。よくマスコミから叩かれていたそうです。

それでもナラに同調する女性や、当時の一般的な女性と違った彼女に惹かれる男性は多く、時代は少しずつ変わっていきました。

もちろん、こういった傾向は音楽界以外でもあったと思います。

|ボサノヴァ・アーティストたちの憧れ

ちょっと話は反れましたが、“普通”がまだ限られていた時代に、辛い思いをしたのは女性だけではありません。

今日はブラジル音楽史において重要なピアニスト兼作曲家ジョニー・アルフのエピソードを紹介します。

現在でも「ボサノヴァの創始者は誰なのか?」という話は話題に良く上がります。
結論を言うと、創始者は誰か特定の人物ではありません。

世界的に成功したボサノヴァの恩恵を受け続けるために、あの時代、あの界隈で活躍していた人たちの誰もが「自分たちが最初に考えた」と言いたくなるのはわかります。

また、一部のマスコミやジャーナリストが自分の“推し”をあたかも創始者と思わせるような文章を書くことによって、偏った物語が出来上がってしまうこともありました。

しかし、実際はボサノヴァの創始者はジョアン・ジルベルトでもなく、アントニオ・カルロス・ジョビンでもありません。

ボサノヴァを創り上げたのは、あの時代、あの界隈で活躍していた人たち全員だと考えています。

音楽家以外にも、ボサノヴァの誕生に貢献した人もいます(ジャーナリストや、ミュージシャンたちにマンションを解放していたお金持ちの息子など)。

そしてボサノヴァの誕生に影響を与えた、彼らの憧れのアーティストの存在も忘れてはなりません。

ジョビンやホベルト・メネスカル、カルロス・リラなど、“ボサノヴァ・アーティスト”と認識される人々が「自身が影響を受けたミュージシャンは誰ですか?」と問われた時、最もよく挙げられる名前の1人がジョニー・アルフです。

ジョニー・アルフの名前は、日本のブラジル音楽好きの方々には知られているかもしれません。

彼は同性愛者でした。

|内気な少年アルフレッド

Johnny Alf (ブラジルではアルフィという発音に近い)クレジット不明

ジョニー・アルフ(本名アルフレッド・ジョゼー・ダ・シルヴァ)は、1929年5月19日にリオデジャネイロで生まれました。

3歳の頃、軍人だった父が護憲革命(別名パウリスタ戦争と呼ばれる市民戦争)の犠牲者となり、家政婦の母が家計を支えるようになります。
母が洗濯を請け負っていた家族の計らいで、少年アルフレッドは9歳からピアノのレッスンを受けさせてもらえることになります。

当時も今も、家政婦として働くシングルマザーがピアノを所持しレッスンに通わせることは非常に困難なこと。
少年アルフレッドはその家族の援助があり、ピアノや英語を習うことができました。
ミルトン・ナシメントも同じように、祖母が家政婦していた夫婦の娘リリア(音楽の先生)に可愛がられ、やがてリリアの養子となっています。

少年アルフレッドは内気で恥ずかしがり。
太っていることや貧困家庭出身で黒人であることから学校でいじめられていたそうです。

そのため、孤独な少年は一層ピアノの練習に精を出しました。

レッスンではクラシックを勉強、特に大好きなショパンのレパートリーを学びました。
映画鑑賞が大好きだった少年は、やがてジョージ・ガーシュインやコール・ポーターなどが手掛けるアメリカの音楽に夢中になっていきます。
映画を観るとすぐにピアノに向かい、その音や響きを探すのが楽しみでした。

↑「ポップスが弾きたかったんだ、ごめんね、ショパン」と、ショパンに謝罪した曲「Seu Chopin, Desculpe」

青年期、アルフレッドは音楽仲間たちとジャズバンドを組みます。
バンドは評判になり、ブラジルーアメリカ合衆国協会で演奏するチャンスを得ました。
アメリカ風の芸名を使おうと思ったアルフレッドは、この時アメリカ人女性に「ジョニー」と名付けられ、それが生涯の芸名となります。

|音楽家、夜の世界と葛藤

ジョニーの才能が最初に注目されたのは「シナトラ&ファルネイファンクラブ」への入会でした。

このファンクラブはご存じフランク・シナトラと、アメリカで演奏経験もあるブラジル人歌手ディック・ファルネイの大ファンが集まる会。
彼らのレコードを聴いたり、演奏をしたり、ジャズやアメリカの音楽について研究していました。

単なるファンクラブかと思いきや、入会には審査がありました。
楽器の演奏や歌、自身の楽曲を披露するなど、何かしら芸を披露し合格しなければなりません。

「シナトラ&ファルネイファンクラブ」の概要 image: Dick Farney facebook ファンページ

アメリカの映画音楽やジャズが大好きなジョニーは1949年に入会。
クラブでピアノを披露すると大絶賛されます。
1952年、ついにファルネイ本人からラジオ局専属ピアニストを任されるようになります。

こうしてジョニーはピアニスト兼作曲家として活動を始め、ナイトクラブにてピアノと歌と披露しながら生きていきます。

夜の世界で生きるジョニーを、母親は心から喜ぶことができませんでした。
当時ポピュラー音楽の世界に対する偏見は、非常に強いものだったのです。
同時にピアノを習わせてくれた家族とも疎遠になり、その寂しさからジョニーはアルコールに溺れてしまいます。

|風変わりなピアノ

ジョニーのピアノは「ちょっと違う」と話題になりました。
彼はインタビューにて「僕の作品はブラジル音楽、アメリカのポピュラー歌謡、ジャズ、観ていた映画の音楽などを少しずつ混ぜ合わせて出来た」と話しています。

そして「Rapaz de Bem」(直訳:好青年)を発表。
現在「ボサノヴァ」と定義される特徴がみられる楽曲です。

この曲が作られたのは1951年、録音されたのは1955年。
ボサノヴァ第一号と呼ばれるジョアン・ジルベルトの「Chega de Saudade」が発表されたのは1958年です。
この曲には「好青年」のタイトル通り、自分の夢を家族に理解してもらえなかったジョニーの孤独な思いも込められています。

複雑な転調を繰り返すジョニーの作品は当時の聴衆から「難解」と呼ばれ、プロデューサーも理解が出来ないほどでした。

一方でジョビンや、当時は無名のジョアン・ジルベルト、若きホベルト・メネスカルらはナイトクラブに足を運び熱心にジョニーが奏でる不思議なハーモニーを聴いていました。
ジョビンの「Desafinado」は「Rapaz de Bem」からインスピレーションを受けたものです(楽曲解説について詳しくは後日)。

ボサノヴァがリオデジャネイロで形成される前の1955年、ジョニーは活動の拠点をサンパウロへ移します。
そのため彼はボサノヴァの輪には入りませんでしたが「ボサノヴァの生みの親」のように慕われていたようです。
しかし、実際にボサノヴァが“輸出”される時には異なりました。

|ボサノヴァ、アメリカへ渡る

ブラジルでボサノヴァが下火になりつつある頃、この洗練された新しいブラジル音楽は海を渡りアメリカで話題となります。

ついにアメリカがブラジル人アーティストの招聘をはじめ、ボサノヴァの創始者の1人としてジョニーにも声がかかりました。

1962年11月21日、カーネギーホール(1962, N.Y.)にて行われたコンサート当日。
そこにジョニーの姿はありませんでした。

後にボサノヴァの歴史で重要となる同コンサート。
この仕切り役であったアルイジオ・ジ・オリヴェイラは、ジョニーの査証を出さないように大使館に呼びかけていたのです(ジョニー以外にもホナルド・ボスコリの査証も拒否させたそう)。

アルイジオはボサノヴァブーム前の1930年代末、ブラジルで人気の歌手カルメン・ミランダと共にアメリカへ渡り大成功。海外で何が受け入れられるのかを知っていました。
そして今回はディレクターとして、ジョビンとジョアンをアメリカのボサノヴァ・ムーブメントのメインにすることにしたのです。

アルイジオが自分を嫌っていたことは感じていたジョニーでしたが、この事実を知り、強いショックを受けました。

|芸術界も白人至上主義

ジョニーにスポットライトを浴びさせまいと圧力をかけたのは、アルイジオだけでなく当時のブラジル社会だという言及もあります。

白人で容姿に恵まれたジョビンに対し、黒人で貧困家庭に育ったジョニーの成功を良く思わない人々が存在したのです。

白人が黒人のチャンスを奪う行為は、ブラジルではサンバが良い例として挙げられます。

他にも、ブラジル文学史で重要なマシャード・ジ・アシス(1839-1908)も、実際は黒人もしくは混血でしたが、死後は「白人」だったように言い伝えられ、現在でも多くの人がマシャード・ジ・アシスを白人と思い込んでいます。

白人のように見えるマシャード・ジ・アシスのモノクロ画像と再現 image: Brasil de Fato

更に同性愛者であったジョニーへの視線は冷たいものでした。
ジョニーはゲイであることを隠していませんでしたが、当時は今のようにセクシャルマイノリティへの理解が進んでいる時代ではありません。

その後、ジョニーは音楽講師や地方のナイトクラブで演奏。体調もすぐれず、うつ病と闘いながら音楽を続けていました。

日本のボサノヴァブーム(リアルタイムではなくリバイバル)に合わせてジョニーへの関心も高まり、レコーディングやショーに復帰。

1999年にはブラジルでシェル音楽大賞を受賞すると、感極まって「トロフィーを欲しいと思ったことはない。それよりも大衆の評価がほしかった」と話しました。

身寄りもなく、老後はサンパウロの養護施設で暮らし、2009年8月に親友アライデ・コスタと共演したのが最後のステージでした。

2010年3月4日、80歳。
病院で息を引き取りました。

|歴史に残るジョニーの名前

実はブラジルでジョニー・アルフの名前が話題になったのは、彼が亡くなった時ではなくジョアン・ジルベルトが亡くなった時でした。

一部メディアでジョアンを「ボサノヴァの父」と呼ぶことに違和感を示すジャーナリストたちがジョニーの話を取り上げたのです。

これは歴史を塗り替えた人々への抵抗でもありました。

しかし、たとえジョニーがボサノヴァが形成された頃にリオデジャネイロにいたとしても、彼は中流階級の白人が中心のボサノヴァコミュニティに馴染めなかっただろうというコメントもあります。

ジョニーは自ら「用心深く、グループの中に入ることに抵抗があった」と話しており、当時リオデジャネイロに戻らず、サンパウロで活動を続けたのは、どこかに属することを嫌ったジョニーの判断だったのかもしれません。

また、ジョニーが同性愛者だったことも大きく取り上げられました。
セクシャルマイノリティとして闘う人々にとって、彼の存在は誇らしいものですが、同時に、差別が酷かった時代を思い出させる辛いものでもありました。

このように、ボサノヴァが忘れ去られつつあるブラジルの中でジョニーの名前が思いがけないところで登場しています。


「ジョニーの素晴らしさが認められるまでに時間がかかった」 

そう話すのは世界中でコンサートを行った経験を持つブラジルを代表する歌手レニー・アンドラージです。
今こうして、ジョニーの生涯をたどりながら彼の曲を聴くと、その内に秘められた想いを強く感じます。

では最後にジョニー・アルフの代表作のひとつ「Ilusão À Toa」を。
直訳すると「あてどない幻想」、愛する人への気持ちは幻想だと思う切なさを書いています。
こちらのバージョンでジョニーと一緒に歌うのは、同じく同性愛者であったガル・コスタです。


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