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建築論の問題群05〈日常/聖〉 建築家 磯崎新と「聖なるもの」(1)

西村謙司(日本文理大学教授)

1.建築と聖
2.「聖なるもの」とは何か
3.建築家 磯崎新と「聖なるもの」
4.「聖デミウルゴス」とは何ものか
5.「聖デミウルゴス」が制作したもの


1. 建築と聖
 古来、<建築>は「聖なるもの」とともにあった。
 エジプトやギリシャの神殿、イタリアやフランスのキリスト教教会堂、日中韓および東南アジアの仏教建築など、日本建築学会から出版されている『建築史図集』(彰国社)を見れば、近世以前の<建築>の多くが「聖なるもの」として建てられていたことを知ることがで きる。
 その歴史が大きく変えられるのは、近世末・産業革命以後、ほんの数百年前のことである。
 現代では、「聖なるもの」は、宗教的幻想、迷信、人間精神の非理性的な産物などと見なされ、それを議論の対象とすることすら忌避されている。しかし、ニーチェが「神は死んだ」 と言ったその時から、世界に虚無感の蔓延するニヒリズムが漂い続けているように見受けられる。そこでは、往々にして、生産性、コスト、スピード等、目前の到達目標が主たる信仰対象となっており、「聖なるもの」すなわち、<超越性を介して見いだされる人間自身の尊厳>への「信」性が欠落し、無意味で規格化された活動が主流を為している。

2.「聖なるもの」とは何か
 「聖なるもの」は、既に手垢にまみれた用語になっているので、ここでは「超越的存在を指示・暗示する媒体」と一言で定義しておきたい。「超越的存在」は、当面、「見えないもの」、「まったく他なるもの」という程度の意味で解しておいてよい。
 ジャン=ジャック・ヴュナンビュルジェの『聖なるもの』(川那部和恵訳・白水社)で、「聖なるもの」は、「世界の二分化と切り離せない」と言われているように、「聖なるもの」を契機として、<日常・非日常><俗・聖><見えるもの・見えないもの>など、世界の二重性が開かれている。「非-日常」の発見がなければ、「日常」は、「日常」と反省的に見られて言語化されることもない。言葉によって意味づけられることも無く、ただ感覚的に過ごされる未分化の時空が漂うだけである。
 すなわち、「聖なるもの」の表徴によって、そもそもの「世界の二重性」が顕かになるのであって、言語によって知的に構造化された有意味で厚みある世界の豊かさを経験することができる。「日常」は、聖性を契機とした「非-日常」に逆照射されて彩りを豊かにしてくる。
 そして、その「聖なるもの」は、あくまでも<日常世界において、非日常世界(超越的存 在)を指示・暗示する物(者)>としてある。「聖なるものは、見えないものを見える化し、見えるものを見えない世界に退去させながら、関係性を確固たるものにし、媒体として行動する」(前掲著より引用)と言われる所以である。「聖なるもの」は、そのような性格を有しているために、「中間的」「パラドクシカルな性質」(同上引用)をもっているとされる。そのため、「聖なるもの」は、「象徴的な想像力を介して構成」(同上引用)され、それが、ミメーシス(模倣)、アナムネーシス(想起)、構想・観想といった術語とともに語られてきた歴史があるのである。そして、そのような「見えないもの」への構想力が最も試される人間の重要な行為として、未知を切り開く<建築>がある。

参考文献
・日本建築学会編:『西洋建築史図集』(三訂版), 彰国社, 1981
・日本建築学会編:『日本建築史図集』(新訂版第三版), 彰国社, 2011
・日本建築学会編:『東洋建築史図集』, 彰国社, 1995
・ジャン=ジャック・ヴュナンビュルジェ,  川那部和恵訳:『聖なるもの』,  白水社, 2018


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