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いつか見た風景 84

「虚な日常を楽しむ方法」

 それは既視感(デジャヴ)と未視感(ジャメヴ)の戦いの記録である。日に数回、歪な形の空間がまるでワームホールのように現れる。どこかの部屋やどこかの通りに姿を変えて現れる。人の顔や看板の、それぞれに刻まれた私の記憶の入れ替え作業。私はそれをドキュメンタリーの映画風に撮ろうかと思い立った。

               スコッチィ・タカオ・ヒマナンデス



「再構築されるそれぞれの事情」


「このスマホで撮るんですか? でもドキュメンタリーなんて私…」と彼女は言った。突然カメラマンに任命されたもんだから少し慌てている。私と一番親しい金曜日の担当ヘルパーさんに頼んだ方が気心も知れているだろうから絶対良いと最初彼女は駄々をこねた。だからこの手のドキュメンタリーには私情は禁物なんだと、作品の重要性を一般論としてさりげなく伝え納得してもらった。心配はご無用、何しろドキュメンタリー風だからさ。曖昧な記憶と同じでさ、とことん曖昧な基準なんだよ。

「君の海馬を食べたい」とか「私の名は?」とか「誰がためにアラームは鳴る」とか、そういうテイストの作品を望んでいる訳ではないんだと説明した。本来はどちらかと言うともっと骨太でディープなスパイ小説やミステリーに近い感じが好みなんだけど、そんな事もこの際横に置いておこう。とにかくドキュメンタリーならではのシズル感なんだよ。ありのままのストーリーを期待したいんだって伝えたよ。出来れば予測不能な展開やドンデン返しのエンディングも正直欲しいとは思うけどさ。とにかく彼女には無理矢理納得してもらって、まずは気楽に半日撮影に付き合ってもらう事にしたんだ。


「気負わず私を撮影してくれればいいんだよ」


 私の頭の中では作品の構想は漠然とだけどほんの少しは出来ていて、理想を言えば、ほらフェリーニの「8 1/2」みたいな感じかな。アレは確かフェリーニのそれまでの作品の数(つまり長編7本と短編や共同監督作品を0.5って数えて合わせた)って聞いているけど、私の場合はまだ作品ゼロだからさ、タイトル段階からしっかり悩んだりしているんだけどね。

 …でね、私自身もちょっとあの作品と重なる部分がある気がして、撮影前から何だかワクワクしてるんだ。アレはさ、新作の構想を兼ねて療養に温泉地にやって来たグイドって名前の老いた映画監督が、全然作品イメージが定まらない葛藤の中で周りの人間に接する苦悩が臨界点を超えちゃってさ、気がつくと自分の理想の幻想世界に迷い込むって感じだっただろう。だからつまりさ、私の深夜の冷蔵庫の前とか、トイレに繋がる廊下の途中とか、それから散歩に出かけ図書館の裏庭に迷い込んだりする私の日常の異次元空間と似てなくもないかなって。

 ほら、覚えているかな? グイドがこれまでの人生で出会った人たちと一緒に輪になって踊る有名なシーン。確かグイドはこう言ってたんだ。「人生はお祭りだ、一緒に過ごそう!」ってね。私の今の心境と言ってもいいんじゃないかな。意味が分からない人生の骨格や日常に漂う虚な精神を、どうやって私自身が堪能出来るかと言う最終課題。だからさ、私も最後はこれまで出会った皆さんと一緒に輪になって踊りたいじゃないか。出来れば何処の誰かをちゃんと分かっている皆さんとね。


「私の知らない奴が紛れ込んでる!」


 私の場合も色々いるからさ。これまで出会った人たちが。気の合う奴も気の合わない奴も、世話を焼いたり焼かれたり、憧れたり嫌悪したり、惚れたり惚れられたり、迷惑かけたりかけられたりね。それで何より今一番心配なのは、そういう人たちがゴチャゴチャになって、中には全く思い出せない奴も結構いるなって事なんだよ。だからそういう人たちの捜索も兼ねてさ、ワームホールのような記憶の回廊で悪戦苦闘する私のドキュメンタリーを撮ろうと思ったんだよ。

 まずは試しにある日の昼のシーンからね。夜はまだまだちょっと色々とプライバシーの問題もあるからさ。5本目か6本目の作品くらいからその辺はちょっとづつ露出して行く予定だよ。そんな事を考えながらトイレから出て来ると、水曜日のヘルパーさんが私の顔を覗き込んで言った。「あ、リハビリパンツ、中に置いたんですけど、履き替えて下さいね、一度カメラ止めますから」



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