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平野啓一郎「本心」を読んで、最愛の人の他者性について考える。

こんにちは、aicafeです。
40代、人生時計で14:00頃に差し掛かったところです。
これからの人生の午後の時間の過ごし方を模索中です。

平野啓一郎著「本心」を読みました。

今年映画化が決定しているようで、プーケットに行く日に成田空港の本屋に立ち寄ったところ、文庫が平積みされていました。

プールサイドで読み始めたのですが、内容は興味深く惹かれるのに、プーケットの楽園ムードの空間と時間がこの本の内容にマッチせず、読書に身が入りませんでした。しっかり取り掛かったのは日本に帰国後で、一気に読み耽りました。

舞台は2040年代の日本です。格差社会化が進み、希望の薄い、鬱屈した空気が充満しているなか、政治家のリーダーシップは乏しく迷走し、未来の日本は世界の中では貧弱な国家に陥っています。

この時代の日本では「自由死」が合法化されています。
「自由死」は、現在もオランダ等の一部の国で認められている、患者が自分の意志で死を選択する行為のことです。現代では「患者」である必要がありますが、2040年代の日本では、様々な条件をクリアする必要はあるものの、患者でなくても「自由死」を選択できます。

主人公の30歳の男性は、生前「自由死」を望んでいた母が不慮の事故で亡くなったことで失意の底にいます。彼は、亡くなった母をAIとVR技術で再生させるバーチャルフィギュア(VF)を購入し、ヘッドセットを通じて<母>とやり取りを始めます。同時に、生前の母の知人との交流を通じて、母の人生を辿りながら「もう十分」という言葉とともに「自由死」を望んだ母の「本心」に迫ろうとします。

死亡した人物をも再生するVFリアルアバターという主人公の職業、時には動物のアバターを介して仮想空間でコミュニケーションする世界観、「縁起」という宇宙創成から体験できるアプリケーションなど、近未来の社会がありありとごく自然に描かれていて、SF小説のような様相がありつつも、そうした近未来の技術と人間の心の葛藤を探り描く、非常に重厚な文学作品であります。

新しい技術の満ち溢れる社会においても、人は台風に怯え、その台風によって住まいのアパートの屋根が飛び避難を余儀なくされる人物の描写は、いつの時代も人間を圧倒する自然の脅威を思わせ、おりしも巨大な台風が日本列島に迫っていたタイミングであったこともあり、考えさせられるものがありました。いつの時代においても自然は常に人を圧倒する。

また、アバターを介してコミュニケーションを交わす仮想空間でも起こる差別、東南アジアから移住した世帯の二世がなおも日本語理解が不十分であるという教育格差、「こっち側」「あっち側」と表現される富める者とそうでない者との間に横たわる深い溝身体障害の有無など、社会の様々な「」や「異質」が、登場人物に絶妙に配され、「もしこの世界に自分がいたら」と想像すると考えることが多すぎて頭がパンクしそうになります。

わたしは主人公の母に近い年齢ということもあり、あと20年後、仮に自分が何ら疾患に脅かされておらずとも「もう十分」と思い「自由死」を選択するという心境とはどのようなものか、と想像しました。
2040年代の日本社会においては老齢の域に達し、経済的な自立が難しい状況にある人たちは、ある意味姥捨て山のように社会のお荷物、迷惑な存在で、そうした社会からの見えない圧力により「自由死」を選択せざるを得ない状況が暗示されていました。

主人公の母は、非正規雇用で何とか稼ぎを得て生活をつなぎ、一人息子の主人公をシングルマザーとして育て、死の直前は旅館で下働きをしていました。その職も、体力的・年齢的にいつまでも続けられるかわからず、主人公の息子が安定した収入を得ることが難しい状況にもあります。そうした経済的な見通しの困窮した状況で「自由死」という選択肢がある時に、母にはそれがどのように映ったのか…想像すると暗い闇に落ちていくような感覚に陥りました。

また、本作品の命題である「本心」とは何かということも考えさせられました。

わたしは平野氏の「分人主義」という考え方に共感しています。

自分探し」のような語られ方をするとき、自分の中にあたかも「本当の自分」がいるようにわたし達は錯覚します。こういう時、「個人」は単一で一貫したアイデンティティを持つ存在とされがちですが、平野氏はこれに疑問を投げかけました。

「分人主義」では、一人の人間がどこにいても一つの個性しかないのではなく、対人関係ごとや環境ごとに異なる人格を持つことを認めます。それらすべてが「本当の自分」であり、その方が自然であるという考え方です。私たちは職場や学校、家庭でそれぞれの人間関係を持ち、ソーシャル・メディアのアカウントを通じてさまざまな人に触れ、国内外を移動することで、幾つもの「分人」を生きています。

https://dividualism.k-hirano.com/

わたしは、自分の生き方がとてもこの感覚に近いので、この評論を読んだ時、大変腑に落ちるものがありました。

この考え方に立つと、「本心」とはそもそも何か、ということにもつながります。
どの分人の本心なのかによって、本心は異なると思うのです。
母が主人公に見せていた分人は、おそらく最もリラックスした状態の分人であったに違いありませんが、でもその「本心」は母が主人公に対するときの分人の本心であり、その他の分人の本心ではないはずです。
主人公に対して母が抱いた本心があったとして、それは別の分人格の母が抱く本心とは別物でしょう。

平野氏は、この「本心」という作品で、「最愛の人の他者性」をテーマとして描いているそうですが、非常に納得します。
主人公にとって最も近い存在であり、唯一の肉親であり、心から感謝し愛する対象である母。
母もまた主人公を同様に思っていたに違いないという関係性において、主人公は母を過度に自分と同一視していたきらいがあります。これは至って自然で、どんな親子や夫婦関係においても起こり得る錯覚だと思います。

そして、同一視しているからこそ「本心」を探れるだろうと思い、探りあてようとしますが、それは自分や知人やAIが想像し学習し得る母の本心に止まり、主人公の知らない母の時間と思考に阻まれ踏み入ることができない領域を知り、母の「本心」は母のものでしかなく、探り当てることは不可能であることが、読者に段々と伝わってきます。

そう考えていると、人間が深く理解し合うということの難しさに諦念のような思いを持つと同時に、自分しかこの自分の「本心」を知り得ない、理解し得ないのだという、自分の「本心」に対する責任のような感情も芽生えます。
人は、それぞれが自分の「本心」を護りながら孤高に生きるほかないけれど、それ故に最愛の人の探り得ない「本心」を知りたいと願うのかもしれません。

読後は、この堂々巡りのような思いがどっと押し寄せ、物語終盤に見えるある兆しに僅かな希望を感じとりながらも、とにかく圧倒されるのが、この「本心」という作品です。傑作です。

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