【小説】烏有へお還り 第32話
第32話
追いかけてきた足跡が途絶えた。庇が張り出しているためか、建物を縁取るように敷かれたコンクリートには雪が積もっていない。
和志は周囲を見回した。コンクリートの周囲に痕跡を探すが、見つけ出せないうちに、雪はあとからあとから降ってくる。
ふと、建物に目をやった。掃き出しの大きな窓がある。すぐ下のコンクリートに、靴底から落ちたと思われる、角ばった雪のかけらを見つけた。
試しに窓枠を引いてみると、鍵がかかっておらず、すんなり動いた。そっと中を覗くと、床の上にわずかに雪のかけらが落ちている。
和志はするりと中に入った。いつも秀玄彫り体験で使っている多目的室だ。今は誰も使用していないらしく、人の気配はない。
耳を澄ませると、遠くから足音が聞こえるような気がした。多目的室から廊下に出ると、ずっと先の方で人影がすっと角を曲がっていった。
追いかけて角を曲がると、階段があった。足音が上に向かって遠ざかる。その時、手にしていた柚果の母のスマホが鳴った。
「和志くん、今そっちに向かってるの。タクシーだからすぐに着くと思う」
柚果だった。息を弾ませている。
「こっちは生涯学習会館の建物の中。柚果のお母さんは多分この中じゃないかと思って探してる」
和志の言葉に、柚果が「ありがとう」と深く息を漏らした。
「お父さんも来ると思う。運転中でつながらなかったけど、メッセージ送っておいたの」
柚果が張り詰めた声で言った。必死で不安を押しのけようとしているのがわかる。
『学校なんて大嫌い。行きたくない』
泣いていた顔を思い出し、胸が痛んだ。
「柚果、あのさ。俺、さっき……」
言いよどみ、和志は口を結んだ。けれども、柚果からの反応がない。
「もしもし」
電話の向こうが静かだ。電波の具合が悪いのかもしれない。
スマホの画面に目をやると、
『邪魔しちゃだめだよ』
目の前に見知らぬ女性の顔があった。驚いて飛び上がる。スマホが床に落ち、廊下を滑っていった。
女性は笑みを浮かべると、首を傾げた。
『和志くん、だよね』
和志の耳の奥で、雑音がする。音は次第に大きくなり、和志を飲み込んでいく。
「どうして、名前……」
両耳を抑えながら尋ねた。頭が割れそうに痛い。
女性が声を立てずに笑う。
『だって、いつも見てるもの』
和志は片方の腕で頭を抱えると、壁に手をついた。女性の目を見ていると、まるで底のない暗い穴に吸い込まれそうな気がした。背中がぞくっとする。
『由利香ちゃんの邪魔しないであげて』
女性がなにか言うたびに、和志の耳の奥で雑音がひどくなる。
『あいつ、ヘンだよな』
はっきりと声が聞こえた。
『みんなと違う』
『おかしい』
『変』
『空気読めない』
「うるさい……!」
和志が叫んだ。しかし雑音は和志を取り囲むように大きくなっていく。
授業中も、休み時間も、寝る前でも、和志の耳の中で繰り返された雑音だった。
『変わってる』
『いつも一人』
『みんなと違う』
『おかしい』
『ヘンだよ』
『変』
『変』
『変』
「やめろ……」
和志は両耳を塞いで崩れ落ちた。頭が痺れたようになり、目の前の景色がぐらぐら揺れる。ふつっと意識が途切れ、身体から力が抜けていった。