ムルソーと海水浴には行けない その壱
わたしは兎角、本を読むのが好きである。なぜこんなに、あほみたいに本ばかり読むのか。自らの読書の原初体験について、あらためて考えてみようと思う。
母には、よく「もう本を読むな」と言われていた。
しかし、極めて小児の頃にたくさんの絵本を与えたのは母である。
アルバムには、証拠写真がたくさんある。
幼稚園に入ってからも、4枚目の写真のような感じでいつも絵本を読んでいたので、やけに静かだな、と思って様子を見に来た母が「また、ご本読みしてる!」と呆れる声を何度も聞いた。
こんな調子で大きくなり、小学校に上がった頃には図書室でたくさんの外国児童文学に出会った。『長くつ下のピッピ』、『くまのパディントン』などを夢中で読んだ日々を思い出す。今でも、パディントンのおかげでマーマレードが大好きだ。
図書室に入り浸るうちに、タイトルと作者の名前の難しい字に惹かれて手に取った黒い本、芥川龍之介の『羅生門』は、近代日本文学との初めての出会いだったかもしれない。初めて読んだときには難しくてよく分からなかったが、あの不気味な雰囲気は汚れた黒い布表紙の印象とシンクロして、妙に心に残り、その後何度も借りた。小学生にとっての定番は『蜘蛛の糸』だが、わたしは俄然、羅生門のほうが好きだった。そぼ降る雨の匂い、死骸の髪を抜く不気味な老婆、残酷な下人。読むほどにドキドキして、今まで読んできたどの本とも違う禍々しさに、大変なものに触れてしまったような気持になった。それからは近代日本文学を読み漁り、今に至る。それについては別途じっくり書いてみたいと思う。
そして、小学5年生の時に初めて出会ったフランス文学が、アルベール・カミュの『異邦人』である。北仙台駅前にあった大野書店で、280円で買った新潮文庫の異邦人は、薄いのに字が小さく、こんな大人っぽい本、本当に自分に読めるのだろうかと思ったが、まず、その冒頭にガツンとやられた。
「今日、ママンが死んだ。」
衝撃である。これまで、想像の世界でピッピと一緒に冒険したり、パディントンと一緒にマーマレードサンドを食べていたわたしは、ムルソーと一緒に海水浴には行けないなと思った。すこし児童文学が恋しくなったが、結局どんどん読み進んだ。見知らぬ土地、アルジェの太陽、マリイの革のサンダル、汗じみた菜っ葉服、サラマノ老人とスパニエル犬、そして拳銃の音。すべてが映画のように頭に浮かび、読書で初めて眩暈を覚えた。
今思うと、11歳の頭の中で想像できることには限界があるように思うし、極東の、東北の地方都市の平凡な子供に不条理文学が分かるわけもないのだが、それからというもの、異邦人を何十回読み直したか分からない。
脳みその使ったことのない場所が強く刺激されるような感覚が忘れられず、それからは未知の「フランス文学」なるものへの憧れだけが膨らみ続けた。
この体験が高じて、後年フランス語を志し、フランスに住んでみたりしたのだから、読書体験というものは怖ろしい。
つづく
最後に、2015年に書いた酒と読書に関する小さな文章を転載しておく。
結構お気にいりの文章である。
冒頭に「前回までのあらすじ」とあるが、前回などというものは、実はない。ただふざけただけだ。
------------------------------------------------------------------------------------2015年8月11日のFacebook
(前回までのあらすじ:エノテカでワインを6本選んで、お届け先に「本人」と書くのに心底げんなりした筆者は、人生で最も身近な日常の愉しみである「酒」と「読書」について考え始めた。)
「思いますところ、お酒のいちばんいけないところは、飲んだら無くなる、というところです。ああ、ワインが飲みたいと思っても、はて、家にない。つまるところ、飲み干してしまったのです。では、日本酒でも、と思っても、ない。やはり、飲み干してしまったのです。
その点、本は読んでも無くなるということがないのが素晴らしい。わたしが5年生の時に北仙台駅前の大野書店で買った新潮文庫の『異邦人』などは、かれこれ30年近く何十遍も読んでいるのに、減りませんよ。おまけにこの薄いカミュは当時280円だったのです。シャンパンなどは抜栓から20分で数千円も無くなる。確かに美味しいが、手持ちの金子が減る。でもアルベール・カミュは280円で30年も40年も愉しませてくれるのですよ。」
(『雑感』(未刊)二郷愛)