本当に美しいものはボーダレスなのかもしれない
脳科学 者が夫婦喧嘩 を司る遺伝子がないかと1万組の夫婦の遺伝子を検査。
それが見つからなかった理由として、誰かと誰かの間にあるもの=つまり「関係性 =つながり」は、遺伝子の問題では無い=自尊心や尊厳を司る遺伝子もない、と言葉に換えていて。納得。
脳科学者は言う。「 服薬は脳には作用するが魂を癒すわけではない 」と。
『科学者が脳と心をつなぐとき』
糸川昌成 さんの著書より
『魂 』という言葉は抽象的な言葉だが、一般的な概念として、『心 』を司るものと捉えても良いだろう。
では、『精神 』とは何か? 心や魂とは一体何なのか?
を考えたときに、『精神障害 』とされるものの原因を探る部分=コミュニケーション障害の本質 が見えるのではないか?
たとえば、引きこもり は、幸せになることにおいて障害を伴う可能性はあるであろうが、引きこもりという状態自体が必ずしも障害ではない。
ちなみに、あらゆる精神障害及び 発達障害の原因の根本 には、身体的脳の機能特性 = 脳の変化・萎縮や、シナプス や 遺伝子の特性などによる障害の発生 がある。
つまり、精神障害を原因のみにポイントを当てるなら、精神障害= 身体障害 とも言える(これを知った時、意外でもあったし、驚きもした)。
それらの原因、例えば発達障害とされる方々の持つ脳の特性は、生まれつきであると現在定義されてはいるが(発達障害に見るようなシナプスの特性が、農薬 などの環境科学汚染物質 によって後天的に発動すると言う学説も現在有力である。服薬による副作用でも、様々特殊な認知の変容やコミュニケーションの変化を生む可能性があるが、ここでは一旦置いておく)、ほか、様々な人間関係など後天的な理由もあり、どちらにせよそれがもたらすのは、脳に与えるストレス、それによる脳の変化である。
それによって誤認識や認知障害が生じる可能性が上がり、他者との間に壁が生じやすくなる。
つまり、原因にフォーカスを当てるならば、精神障害&発達障害の症状発動の原因は、身体的な理由が主であるが、社会において一般的に精神障害と言うのは、脳に機能特性や障害を持っている当事者の方が、その特性を抱えたまま、他者とコミュケーションを取ろうとしたときに生じる不便=コミュニケーション障害 が主とされている。
コミュニケーションに障害が生まれると、社会生活においてストレスがかかり、生活に支障が生まれる。
そこで初めて、当事者が障害を抱えている、と言うことになる。
『障害者』という言葉は、基本当事者のための言葉である、と言う概念はここから来る。
そして、自分のことを『健常者 』と呼ぶ健常者をあまり見かけないように、自分のことを進んで『障害者」と呼ぶ障害者の方とは、僕は実はあまり会ったことがない。
話しを戻し。
生活に支障がない限り、まず、診断名はつけようがないし、基本、(家族を含め)自己申請式である 障害者手帳 もおりることはなく、統合失調症 や 解離性障害、鬱や躁 などの気分の波を伴う双極性障害 的気分障害、ADHD や 自閉症スペクトラム的特性を持っていたとしても、生活に大幅な支障=生活を維持できない理由=働けないなどの支障がなければ、『障害』と言う概念は、医師からまず適用されず、診断書も書いてもらえないため、障害者手帳 を申請する権利もない。
メディアによる情報の拡散により、自身に発達障害のチェックリストに当てはまるような特性を見つけ、精神科を受診すると言うパターンは現在増えたらしいが、特性を有していることと、それが必ずしも、社会的な認定としての『障害』と結びつくとは限らない。
しかし同時に、自分の中にある壁は主観的なものであるから、その辛さや違和感は、本人にしか分かり得ない。ここに様々なジレンマも生じるだろう。
今では常識となっているこれらの知識が一切ないまま、僕はここ数年前まで生きてきて、ここ三年、精神福祉 や 精神医療 の分野を勉強し、ようやく日本の社会制度についてだんだん整理ができてきた。
精神障害がコミュニケーション障害による「つながりの障害」であるなら、それを回復するのに、コミュニケーションを介しての癒しが必要であろう。
それを同時に身体障害としての服薬を行いつつ、服薬の調整を重ねながら継続していくと言う意味でも、精神障害者の方々は、大変なものを背負っているのではないかということが僕にも予想される。
特に、なぜそういったコミニケーション障害が起きているのか? という、その根本的な原因を想像されない場合において、ただそのトラブルだけがフューチャーされることもあるであろうから。
なぜ人は心を病むのか?
ご自身の体験に合わせて少し想像してみて欲しい。
人の身体は、想像を絶する情報に出会ったとき、防御反応として、認知の手法を換えて身を守る機能を本来有している。
そして人は誰も、想像を絶することを想像することはできはしない。
なぜならそれは、文字通り想像を絶しているからだ。
そしてこの世の中には、メディアに露出しないような想像絶する物事がたくさんあり、それらのものに遭遇し、精神障害を誘発する特性が発症したなら……。それに耐え得る、理性や知性を得るには、やはり、かなりの時間や精神的な強さ、肉体の強靭性が必要であろうと、少なくとも僕はそう思う。
そして何より、それを乗り越えるのであればなおさら、各人を支える魂のつながりが、多かれ少なかれ、必要であろうとも。
「誰かの前で 泣けたなら、
独りで流してきた透明な血は、
必ずとめることができる。
そういう悲しみの明け方に
癒される権利が、
誰しもあり、
お前は今、
その権利に、
甘えていい」
マイク・トウソン
詩集 ―『タイマン走馬燈』―
グループ活動による集団療法を意識されている、とある精神福祉従事者の方が、当事者の社会を表す言葉としてこんなことをおっしゃっていた。
「『優しさ』と言う言葉は 競争社会 の中で生まれた言葉であり、当事者社会の中では、その優しさを、優しさと言う事で言い表すのは当てはまらないと思う。
なぜなら、彼らの間では、助け合うと言うことが基本前提であるから。その『優しさ』をこの社会に起き換える言葉は、この社会では、まだ見つからない」と。
僕は個人的に、精神障害や特性を有した方とのコミュニケーションによく見る(一般的に言う所の)「優しさ」の受け渡しを、普段から、「美しさ」という言葉に言い換えている。
本当に美しいものはボーダレスなのかもしれない。
あらゆる壁をすり抜けて伝わる芸術のように。
そして何もそれは、絵画 や音楽、音楽や演劇などの中にだけあるのではなく、人が人としてそこにあり、日々の何気ない挨拶の中にも、それは感じられると思うのだが、どうだろうか?
そこに障害者であるとか健常者であるとか、一般であるとか特殊であるとか、そんな言葉の入る余地は、やはり無いような気がする。
#タイマン走馬燈 あとがき より
ピアノで編んだ音の詩集
ポエミュージック1stアルバム
「涙(にじ)の花束/雨の花びらで花束を編む」
★アルバムを聴く→ https://linkco.re/QhZzxTV1
◆詩のレーベル『ポエレーベル』公式サイト
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◆インスタ
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