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書き手はいつまで自分をさらけ出せばいいのか

よく、コンテンツには「共感」が大事だと耳にする。ここnoteであれば、どれだけ読み手の心に訴えかけられるか、どれだけ納得させられるものが与えられるかが大事なのかもしれない。
それがいいねの連なりになるのか、新しいフォロワー取得に繋がるのかはその人次第ではあるが。

きっと、大抵のユーザーは目に見える「数」でそれを測っている。たくさんいいねがつけば、多くの共感を得られたと実感するだろうし、バズれば少し鼻が高い。
どんなに綺麗事を言おうが、なんだかんだフォロワーが増えれば嬉しいし、コメントが来たらワクワクするし、ある日フォローが外されていたらちょっとへこむ。
そう思うことに、あまり違いはないのではないだろうか。それが普通だし、そういうものだと思うし、少なくともわたしもそのうちのひとりだ。読んでもらえることは嬉しいし、数ってどこまでもわかりやすい。

自分のその向こうにいる誰かに想いを馳せるのが、クリエイターの勤めである。
これを書きたい!という想いのすぐ隣には、これを書いたらどれだけのリアクションがあるのだろうと、画面の向こうにいる見えない誰かの目を考えてしまうかもしれないが、それは最も真っ当なつくり手であるということだと思う。発信者にとって、誰かの目は結構怖いものだ。

そういう意味では、わたしたちはいつも、無意識に誰かの顔色を伺っている。自分のご機嫌を取りながら、自分の書きたいことを書きながら、その先の誰かにちょっと腰が低かったりする。

例え、誰に何を思われてもいいからとにかく書くのだ精神を持っていたとしても。
誰にも反応されずフォローもされず、ただ己の欲望に従い淡々と書き続けていくには結構なメンタルがいる。
それに大小はなくて、有名な作家さんでさえも読者の意見を参考にするくらいなのだから、声を吸収するのは普通だ。
自分の考えを誰かに届けたくて、誰かに聞いてほしくて、だから今日も書くのだ。読んで欲しいという思いなしで文字なんて書けない。それでいいと思っている。

これはnoteに限らないけれど。
大衆向けに何かをつくるときには、つくったものから無駄を省き、とにかく読者の目線に立ち、必要なものを揃えて取捨選択をしていく必要がある。記事であれば統一表記に注意を払ったり、わかりやすいものに変換していったり、「これはここにはいらない。でもここには足りない」、そうやって調理をしていくのが「編集」であり、「ライター」とはちょっと違う。これは少し余談なので、置いておく。

noteのような、テーマから自分で決められて、とにかく「自由」に書ける媒体の中において。マス受けするものをあえてつくろうとすると、これもまたうまくいかない。
人の顔色を伺い何かを差し出すというのは、さじ加減を間違えるとただの「つまらないもの」になってしまう。

面白いものを書くのって、大変なのだ。
面白いって、めんどくさいのだ。
面白さって、つくるのには技術がいる。

面白いってなんだろうって考えると。

わたしがこれから面白いと思うものは多分、わたしがこれまでに「面白い」と感じてきたものの延長でしかないのだな、とちょっと残酷なことを思う。
わたしがこれから感銘を受けるものは、わたしがこれまで受けてきたものと似た類のものであるのに間違いはない。
経験したことのない世界の話は、人はわからないものだ。
わからないから、共感できない。物語として聴くには十分かもしれないけれど、そこに「ああわかるなあ。この人の考えに同意だ」といった共感や、「こんな見方もあるんだ」といった気づきは多分少ない。だから、わかりやすさって大事で、経験って宝物だ。
わかるものが増えるから、いろんなことを見て感じたほうがいい。

人は結局、これまで経験してきたもので成り立っている。
明日いきなり新しい自分に生まれ変われないのと同じように。
明日の私は、今日の私の延長でしかなくて。わかるものも共感できるものも、これでの人生で一度感じたものだけなのかも知れない。
わからないって、もったいない。

共感が大切だというのならば。
面白さが旨味であるならば。

自分の考えを書いてそれを表現しようとするのには、かなり体力がいる。
材料は自分の経験なのだから、それを批判されるともうなんだかやるせないし、受けるダメージもクリティカルヒット。
知識や見聞を書くならばまだしも、感性でつくったものに矢が飛んで来ると、なかなかに気にしてしまう。
気にしないようにしてても、どっかで思い出して「ああ…」と思考停止したり。

こんなことが書きたい、こんなことを伝えたいと思う心の片隅で、

「あと、どれくらい自分のことをさらけ出せばいいのだろう」

そんな風に思ってしまう。
自分の体験したことを記事にするタイプの人ならば、一度は考えたことがあるのではないか。

つくるものは自分の感性が頼り、だとしたら、それら全てを書ききって出し切ったとき、書けなくなってしまうのではないか。
もう自分を絞りきってネタがなくなってしまうのではないか。
終わりを考えたことがある人が、いるはずだ。
わたしは何度も考えた。

これにひとつ、わたしなりに結果を出すとするならば。

生きてる限り、大抵の人はクリエイター

ということである。

その理由はふたつあって、
まずひとつめ。書くことを、つくることを気楽に考えるべきだな、と思ったこととして

記事を書いてるからとか、クリエイティブ系の仕事をしているからとか、仕事がものつくりだとか。
そういう世間で言われている肩書きのある人々だけが「クリエイター」ではないとわたしは思う。

人間、全員がクリエイターなのではないだろうか。
世の中の全ての仕事がクリエイティブだ。

水も空気も電気も、作ってくれている人がいるから当たり前に使える。ややこしい事務作業は会社を支える土台となるわけだし、接客だって人に対してのサービスをつくるわけで。
時間とか空間とか安らぎとか。そういうものを当たり前に作れる人たちはみんな「クリエイター」って言っていい。そこに違いはない。
だから、社会で仕事をする限り、みんなクリエイターだ。みんなおもしろいものつくりができる、立派な作り手。
わたしたち書き手だけがクリエイティブなことをしているわけではないということ、鼻を高くしてはいけないのだということを、わたしは痛感する。

そしてふたつめ。

同じ毎日がない人生で、感じること全てがインプットになるのだから、なにもきっと心配しなくていいのだと思う。

朝起きて思うこと、手抜きだった朝食、満員電車で音漏れしたイヤホンから流れてくる曲が少し気になったり、仕事場の暖房が壊れてたり、怒られてへこむこと、コンビニの定員の無愛想な挨拶、お金がないと虚しくなるあの瞬間、好きな人を思う時間。

毎日がネタで、毎日がインプットだ。
生きてる限り、クリエイターであることに変わりはない。生きてる限り、ネタの宝庫なのである。
笑って泣いて怒れる限り、思うことが重なって、そしてそれが書きたいなにかになったとき、いつの間にか書いているものなのだろう。
生きていれば経験が積めるし、わかることが増えていく。
その「わかる」が感性になって、何かに共感できるようになるし、誰かの共感にもなる。

だから、歳を取れる人生であるうちは、きっとネタは尽きない。そんなもんだと思っている。
あんまり心配しなくて多分大丈夫だ。

さらけだすというよりは。
滲み出る自分の気持ちを、そっと記事に落とし込むという表現のほうが正しいのかもしれない。

どこまでも書いていいし、無理をしなくてもいいし、共感を得るために殴るように書かなくてもいい。
ただひとつ、書き続けて自分を表現することに終わりはこない。
明日の自分は、また更新されて、新しいことを思っているのである。ちょっとずつ、わかることが増える毎日で。
さらけ出すことに、終わりはない。

それにnoteって、自由だ。
なにを書いても、どんな自分をさらけ出しても。
それを受け止めてくれる誰かが絶対にいる。
書きたい人が集まった優しい世界で。
怯えて書くなんて、もったいない。
もっと好きに書いて、もっとのびのびしていいんじゃないでしょうか。
そういうものを、わたしたち書き手は望んでいたのだと思う。

これは余談だけれど。そして主観だけれども。

本当に書きたい人は、「書きたい」って口に多分しない。それよりもまず、書いちゃってる。つくっちゃってる。

忙しくて制作に打ち込めなくなったりもする中で、ふと時間ができたときに、「やったー!つくれる!」って思える。そしてもうつくってる。とりあえず、動いている。
「わたしは書きたいんだ!」「つくりたいんだ!」と力む人は凡人、いつのまにかつくってる人が一流、そんな感じがする。
料理したい!と豪語するよりも、作りました!のほうが説得力がある。

書けなくなることとか、さらけ出す恐怖とか。
そんなことを考えるならばまずは、もう書いてしまう。
それが「夢中になる」ということなのかもしれない。夢中な人に勝てるなにかって、まだこの世にない気がする。

書いて批判されたり、書けなくなって悲しくなったり、どこまで書けばいいかわからなくなったり。

そんな時は、「誰になにを伝えたいのか」を忘れず、歩く歩幅とスピードを変えればいいだけなのだと思う。
顔色をうかがったり、無理にネタを絞って反応に怯えるよりは。
「やったー!書ける!」って思える、楽しくて夢中になる感覚を大切に、程よく自分を出せればいいななんて思うのです。

#エッセイ #ライティング #書く #note #noteでよかったこと


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saku
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