音楽史・記事編143.調律史とモーツァルト
1784年、モーツァルトは室内楽では異色の楽器構成であるクラヴィーアと木管による五重奏曲変ホ長調K.425を作曲し、モーツァルトはこの曲について「生涯最高の作品」と述べています。なぜこの作品が生涯最高の作品なのか、モーツァルトがこのように考えた理由の背景については、おそらく平均律によるクラヴィーアの調律が普及し始めたこの時期、クラヴィーアと木管楽器やオーケストラとのアンサンブルの在り方にも平均律の影響が考えられ、モーツァルトはその解決方法について一定の成果を得たためと思われ、本編では音楽史における調律史の概要を振り返り、モーツァルトのこの異色の室内楽作曲の真意について考察します。
〇ピタゴラスの音階理論~グレゴリオ聖歌
紀元前6世紀頃にギリシャの数学者ピタゴラスは音階の主要な音程に関する数比を発見します。ピタゴラスはオクターヴの数比が2:1、完全5度の数比が3:2であることを発見し、これにより現代にも用いられるドレミファソ・・の音階を完成させます。ピタゴラスの音楽理論は西暦150年頃にはプトレマイオスの「ハルモニア理論」、ニコマコスの「ハルモニア教書」などとして著され、この時代の音楽の一般的な音階であったことが分かります。当時の音楽は単旋律のモノフォニーで行われていたため、和声は重視されず、後の和声論でいえば4度と5度の和声は純正和声であり、3度および6度和声は純正ではなかったとされますが、これらの音階を用いて聖堂や教会でミサ曲のもとになる讃歌や聖歌が歌われ、また一般に世俗的な歌謡も歌われていたようです。
9世紀から10世紀頃にはイタリアとガリア地方の聖歌をもとにグレゴリオ聖歌が編纂され、これらはネウマ譜と呼ばれる楽譜に記載され、楽譜に記載された曲は後の調性の元となる教会旋法として様式化されたと見られます。さらに1250年頃には複数の声部を重ねるポリフォニーが現れたとされ、ピタゴラス音律で純正な和声であった5度やあるいは4度の和声が中心であったものと見られます。(1)
〇ルネサンス期・・・純正3度の和声によるポリフォニー音楽が始まる
12世紀頃にはヨーロッパ各地に大聖堂が建設されパイプオルガンが設置さるようになり、ノートルダム楽派が生まれ、聖歌やミサ曲が作曲されるようになります。この頃、イギリスでは純正3度と純正6度の和声様式の音楽が現れていたようで、おそらく1410年頃から1420年頃にはイギリスの作曲家ダンスタブルによってフランドルに伝えられたものと見られます。そして、従来のギリシャ音律の純正4度と純正5度に加え、3度および6度の和声を純正にした純正律が始まったものと思われます。この純正律によってポリフォニー様式は格段の進歩を見せ、フランドルの巨匠ギョウム・デュファイによってルネサンス音楽が始まります。しかし、純正律の音階における全音は9:8の大全音と10:9の小全音が組み合わされており極めて不自然となり、また転調すると純正度が保てないため転調できないという欠点があり、これを改善するためのさまざまな調律方法が考案されたようです。その中で、中全音律という調律方法がルネサンス後期に現れ、バロック期から、さらに古典派期に至っても一般的に使用されたものと見られます。中全音律はオクターヴの12の3度の中に8つの純正3度があり、限られた範囲での転調が可能という特徴があり、全音は大全音と小全音の間の中全音で均一化され、5度はやや狭く調律され、欠点としてはオクターヴの中に4つのウルフの3度及び1つのウルフの5度が存在するということのようです。ルネサンス期、バロック期、古典派期を通じて純正3度の美しい和声が音楽の中心となります。
〇バロック期・・・平均律による調律が始まる
1691年ドイツのヴェルクマイスターによって平均律に係る「調律法」が出版されます。この平均律はルネサンス期から300年にわたって伝統的に続いてきた純正3度の和声を犠牲にして、すなわち3度の和声を広くとりオクターヴの12音を平均的に調律することによって、いつでもいかなる調性への転調、移調を可能にする画期的な調律方法でした。早速、パッヘルベルなどが平均律による作曲を試みていますが、24全ての調性によって演奏が可能であることを実証したのはセバスティアン・バッハでした。この平均律によって調性ごとのクラヴィーアの調律作業は回避され、家庭などへのクラヴィーアの普及とともに広まっていったものと見られ、音楽は呪縛から解き放たれたようにその可能性を大きく広げ、現代においてもあらゆる音楽の基礎となっています。
〇モーツァルトとクラヴィーア・・・モーツァルト、平均律で調律されたクラヴィーアのアンサンブル方法を見出す
モーツァルトは幼いころから教会のパイプオルガンを演奏し、イタリアのボローニャではマルティーニ師から古様式の音楽を学ぶなど純正律の響きに親しんでいました。1722年にライプツィヒのセバスティアン・バッハが平均律クラヴィーア曲集を作曲し平均律ですべての調性での演奏が可能であることを実証したものの、モーツァルト時代のクラヴィーアは依然として美しい3度の純正和声を響かせる中全音律で調律されていたものと見られます。しかし、平均律では調性ごとの調律が不要なことから徐々にクラヴィーアの平均律での調律が広まっていったと考えられます。ウィーンに移住したモーツァルトは演奏会では自身のクラヴィーアを持ち込んで演奏していますので、このクラヴィーアはモーツァルトが好んだ中全音律で調律されていたものと見られます。しかし、クラヴィーアの弟子のバルバラ・フォン・プロイヤーのために作曲したクラヴィーア協奏曲第14番変ホ長調K.499と第17番ト長調K.453はプロイヤー邸で初演されており、プロイヤー邸で演奏したクラヴィーアはおそらく平均律で調律されていたのでしょう。モーツァルトは平均律の3度の不純な響きに我慢ができず、じゃじゃ馬のようなクラヴィーアと管弦楽とのアンサンブルの解決方法を探るために、クラヴィーアと木管のための五重奏曲変ホ長調K.542を作曲したのかもしれません。この異色の構成による五重奏曲では冒頭から木管が純正な和音を響かせ、続いてクラヴィーアは旋律を弾いて登場します。モーツァルトは平均律ではクラヴィーアでの和声の演奏をつとめて避けるようにし、旋律と分散和音中心の演奏を行うようにしているように見えます。第14番で多用していたクラヴィーアでの和声は第17番では特に3度の和声の使用は控えられ、クラヴィーアは旋律と分散和音を主に担い、和声は木管楽器が主に担っています。第17番の終楽章では自宅で飼っていたムクドリのシュタールの鳴き声がホルンと木管楽器の純正な和声で現れます。このようにモーツァルトは、平均律で調律されたじゃじゃ馬クラヴィーアとのアンサンブル方法を見出したことを喜び、「生涯のこれまで書いた最高の作品」と述べたものと見られます。
〇バロックの歌曲とモーツァルトのドイツ・リート、ロマン派以降
バロック時代にはヘンデルなどによって通奏低音と独唱のためのアリアが多く作曲され、古典派期にはモーツァルトによってクラヴィーア伴奏のドイツ・リートが創始されます。バロック期のチェンバロ伴奏の歌曲と古典派期のクラヴィーア伴奏の歌曲はどこに相違点があるのかについて見て行きます。バロック期の音楽は通奏低音を伴うことが特徴となっています。ヘンデルの歌曲の伴奏も通奏低音としてのチェンバロが用いられ、これらは純正律あるいは中全音律で演奏され、調性によって音程が変わるため調性ごとに調律が行われ、それぞれの演奏者は通奏低音の音程を聴いてその音に合わせて演奏を行っていました。しかし、平均律が現れると状況は変わります。平均律ではすべての調性で演奏が可能であるため調性ごとの調律は不要となり、いつでもいかなる調性への転調も可能であるという特徴がある一方で、長3度は純正ではなくやや広く調律されるため純正な和声は得られず、完全5度は若干狭く調律されます。モーツァルトはウィーンに出てくるまでは歌曲は管弦楽伴奏で作曲していますが、ウィーンでは家庭用の平均律で調律されたクラヴィーアが普及していたためか、クラヴィーア伴奏のドイツ語の歌曲、いわゆるドイツ・リートを作曲するようになります。しかし、和声への不満は持っていたのかもしれません。その後、ベートーヴェンによって和声は多様化します。ロマン派期以降、純正和声の重要性は低くなったように思われます。
ロマン派の大作曲家リストは多くの名曲のピアノ編曲を行っています。リストはモーツァルトのいくつかのオペラのアリアとモテットのアヴェ・ヴェルム・コルプスのピアノ編曲を行っていますが、これらは編曲ではなく主題を利用したファンタジーとして作曲しています。例えばモーツァルトの歌劇「魔笛」にでてくるトロンボーンの3つの純正な和音をピアノで再現することは不可能であり、リストはそのことを心得ていたように思えます。
【音楽史年表より】
1722年作曲、セバスティアン・バッハ(37)、平均律クラヴィーア曲集第1巻BWV846~869
1691年ザクセンのオルガニスト、アンドレアス・ヴェルクマイスターは著書「調律法」において「心地よく整えられた調律(wohltemperiert)」を提唱しました。この調律では3度音程を純正3度にせず、ほんの少しシャープにすることによって、どの調への転調も可能となり、また各調整の個性も聴き取れるというものでした。純正に固執したのでは24の調すべてを1台の鍵盤楽器で演奏することは出来ず、24全てを弾こうと思えば、純正を放棄し、ややシャープな長3度を持ってよしとせねばならぬという苦しい選択でしたが、バッハは未来を考えてヴェルクマイスターに賛同し、この調律を選び、1722年にプレリュードとフーガが1組となった全24曲からなる平均律クラヴィーア曲集第1巻を仕上げたのです。邦訳では「平均律」という単語が定着していますが、「wohltemperiert」は平均に調律されたという意味なのか、現在のピアノのように「等分平均律」なのか、分かっていません。バッハは弟子のキルンベルガーに調律させた時には「長3度を高く」と強く要求したとのことですが、「心地よく」あるいは「程よく」または「うまい具合に」調律されたと解釈し、幾通りもの調律を試みていたのではないかという気もします。(2)
1784年3/23初演、モーツァルト(28)、クラヴィーア協奏曲第14番変ホ長調K.449
プロイヤーの館でバルバラ・フォン・プライヤーのクラヴィーア独奏によって初演される。モーツァルトは1784年2月から「自作品目録」を作り始める。これは作曲家としての活動を再確認し、自作品を記録に留めておこうとするモーツァルトの積極的な態度の現れととれよう。以後、作品の記入は死の直前まで続くが、その巻頭を飾るのがこの変ホ長調協奏曲である。この協奏曲はバルバラ・フォン・プロイヤーのために作曲された。バルバラはウィーン駐在のザルツブルク宮廷連絡官ゴッドフリート・フォン・プロイヤーの娘で、1784年から85年にかけてモーツァルトにクラヴィーアと作曲を師事していた。(3)
4/1初演、モーツァルト(28)、クラヴィーアと木管のための五重奏曲変ホ長調K.452
モーツァルトはこの五重奏曲を新作のクラヴィーア協奏曲第15番K.450と第16番K.451と共にブルク劇場の自作作品演奏会で初演する。この演奏会の模様を父レオポルトへの手紙で「五重奏曲は大喝采を博しました。僕はこの曲を生涯のこれまでに書いた最高の作品と考えております」と記し、並々ならぬ自信のほどを覗かせている。モーツァルトの意欲は8ページにも及ぶ残されたスケッチにも窺え、協奏曲のように活躍するクラヴィーアに対し木管は一群となって交替したり、個々に協奏し、決して従属はしない、とりわけ入念なスケッチによって限界にまで進められた楽器の組み合わせの繊細な変化、そして典雅な響きの魅力は大きい。自筆譜はパリ国立図書館及びベルリン国立図書館プロイセン財団に分散、所蔵される。(3)(4)
4/10初演、モーツァルト(28)、クラヴィーア協奏曲第17番ト長調K.453
モーツァルトの有能なクラヴィーアの弟子であったバルバラ・フォン・プロイヤー(愛称バベッテ)のために作曲される。第3楽章はウィットに富んだ主題と5つの変奏からなっているが、この主題はモーツァルトが34クロイツァーで買い求めたムク鳥の「シュタール」がさえずることができた旋律とされている。モーツァルトはこの作品がとりわけ気に入っていたらしく、5/15の父宛ての書簡には「プロイヤー嬢のために書かれた変ロ長調とト長調の協奏曲は、ぼくと彼女以外のだれのものでもありません。したがって間違っても他人の手に渡ることは許されません。」としたためており、この作品を大切に思っていたことが推察される。自筆譜はクラクフのヤギェロン図書館に保存されている。1787年頃シュパイヤーのポスラー社から初版が出版される。(3)(4)
【参考文献】
1.マルセル・ブノワ、ノルベール・デュフルク、ベルナール・ガニュバン、ピエレット・ジェルマン共著、岡田朋子訳、西洋音楽史年表(白水社)
2.淡野弓子著、バッハの秘密(平凡社)
3.モーツァルト事典(東京書籍)
4.作曲家別名曲解説ライブラリー・モーツァルト(音楽之友社)
SEAラボラトリ