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音楽史年表記事編16.モーツァルト、イザベラ妃を追悼する・クラヴィーア協奏曲第18番変ロ長調K.456

 モーツァルトは1784年9月に盲目のピアノ奏者マリア・テレジア・フォン・パラディスのためにクラヴィーア協奏曲第18番変ロ長調K.456を作曲します。パラディスのパリ、ロンドンへの演奏旅行のために作曲されたとされますが、おそらく翌年の四旬節に予定されていた皇帝ヨーゼフ2世臨席の演奏会での演奏を考えていたと思われます。フランス風のギャラント様式によるこの協奏曲でモーツァルトは第2楽章にト短調の哀愁をおびた優美なアンダンテの曲を置いています。
 皇帝ヨーゼフ2世は1760年にパルマ公女イザベラと結婚しましたが、生まれた女児は幼くして他界し、愛する妻のイザベラまでが1763年21歳の若さで亡くなるという不幸に見舞われました。バイエルン公女と再婚したものの、自分の跡継ぎはあきらめ、後のことは弟のレオポルトに託すと決めていたようです。1780年11月母親のマリア・テレジアが亡くなると、ヨーゼフ2世は理想的な近代国家建設を目指して次々と改革を進め、また祖父の皇帝カール6世がスペイン継承戦争でスペインに出征したように、自身も脅威となっていたオスマン・トルコに対抗するためにたびたびハンガリーに出征しました。
 1785年2/16、皇帝ヨーゼフ2世はソプラノ歌手ルイーザ・ラスキの演奏会に臨席し、この演奏会でモーツァルトはこのクラヴィーア協奏曲第18番を演奏します。哀愁をおびたト短調の第2楽章で皇帝ヨーゼフ2世はおそらく若くして亡くなった妻のイザベラを想い出し、胸を熱くしたのでしょう、演奏が終わると皇帝はモーツァルトに手に帽子を取って挨拶され、「ブラボー・モーツァルト」と叫ばれました。モーツァルトのクラヴィーア協奏曲第18番の第2楽章はイザベラ妃への追悼の音楽となったのでした。曲はヨーゼフ2世が好んだ木管楽器が協奏交響曲のようにピアノとともにアンサンブルを行います。
 ヨーゼフ2世はモーツァルトの雇い入れを考えていたようですが、まだ身辺には女帝マリア・テレジア時代の寵臣が多く残っており、オペラの作曲委嘱とグルックの後任として宮廷作曲家任命が精いっぱいだったようです。

【音楽史年表より】
1784年9/30作曲、モーツァルト(28)、クラヴィーア協奏曲第18番変ロ長調K.456
この協奏曲は優れた女性ピアニストのマリーア・テレジア・フォン・パラディスのために作曲される。パラディス嬢はオーストリア官吏の娘で盲目であったがクラヴィーアを巧みに弾き、声楽と作曲に秀でていた。また、盲人のための音楽学校を開設するなど才能豊かな人物で、同名のマリア・テレジア王妃から年金を受けていた。モーツァルトとは前年の夏にザルツブルクで知り合っており、1784年3月からのパリ、ロンドンへの演奏旅行のための新作協奏曲をモーツァルトに依頼したものと思われる。初演はマリーア・テレジア・バラディースの独奏により、おそらく1784年秋にパリかロンドンで行われた。(1)(2)
1785年2/16ウィーン初演、モーツァルト(29)、クラヴィーア協奏曲第18番変ロ長調K.456
モーツァルトは翌年の歌劇「フィガロの結婚」初演で伯爵夫人を歌うことになるイタリア人の歌手ルイーザ・ラスキの演奏会でクラヴィーア協奏曲第18番変ロ長調を演奏する。ウィーンを訪問した父レオポルトが姉ナンネルに宛てた手紙によると「日曜日の晩にはイタリア人歌手ラスキ嬢の音楽会が劇場で催された。彼女は今日イタリアへ旅立ちます。・・・お前の弟はパリへ旅立ったパラディス嬢のために作曲したすばらしい協奏曲を弾いた・・・楽器間の相互作用はたいへんはっきりと聴き分けられたのだが、うれしくてその喜びで涙が溢れ出てしまった。お前の弟が舞台を降りると、皇帝(ヨーゼフ2世)が手に帽子をとって挨拶され、「ブラボー、モーツァルト」と叫ばれた。彼が演奏するために再び登場してきた時も、もちろん拍手を送られた。なお、ウィーン到着後最初のこの書簡には、ハイドンがモーツァルトを絶賛した有名な一節が記されている。(1)
【参考文献】
1.モーツァルト事典(東京書籍)
2.作曲家別名曲解説ライブラリー・モーツァルト(音楽之友社)

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