メンズファッションから見える社会の抑圧 2023年9月【2】
メンズファッションは暗い
ファッションのカタログ、サイト、広告等を眺めていると、男女の差に気付く。男性モデルは無表情で、暗い色の服を着ている。一方、女性モデルは微笑んで、明るい色の服を着ている。
もちろん無表情で暗い色の服を着た女性モデルもいる。でも微笑んで明るい色の服を着ている男性モデルは少ない。
私は男性でスカートを穿くのだが、メンズスカートは好きではない。カタログを見ると、どうにもみんな不機嫌そうなのだ。そして黒、黒、黒の世界。見ていて憂鬱になる。
これらの事実は男性が不幸であることを示すものではないが、暗い表情で暗い服を着ていたら、気分もそうなっていくのではないか。「笑う門には福来る」ということわざもある。
男性のスーツを見ると泣きたくなる
私は男性のスーツの広告を見ると、泣き出したくなる。労働の象徴、抑圧の象徴に見えるのだ。滅私奉公の象徴と言ってもいい。
嫌でもやめられない、つらくてもつらいと言えない、感情を殺して働く文化の象徴。個人であることを許さず、社会や組織に同化することを強いる文化の象徴。そのように見えるのだ。
はてなダイアリーに「スーツの集団に近づくと泣きそうになる」という主旨のエントリーがある。私もそのひとりだ。
もちろんすべてが嫌いというわけではない。何しろ私は大のビートルズファンだ。初期の彼らはいつもおそろいのスーツを着ていた。概ね、西洋人のスーツ姿は受け入れることができる。
許せるスーツと許せないスーツがある。このあたりはうまく説明できない。とりあえず、日本のスーツのカタログやチラシを見ると、胸が苦しくなる。
しかし女性のスーツにはあまり嫌悪感がない。あることはあるが、男性ほどではない。パンツとスカートが選べるところから、少しは私的感情が許されているように思える。男性に比べれば、いくらかは個人でいることが許されているように感じる。
メンズの服に喜びを感じない
メンズの服を着ることに強い拒否感があるわけではない。ただメンズの服に喜びを感じないのだ。だからあまり着たくない。
私は髪を伸ばして、ムダ毛を剃って、スカートを穿いている。最近は、トップスはTシャツ、ボトムスはミニスカートという格好で出かけている。これが楽しい。憂さ晴らしのようで楽しいのだ。
女性に見られようとはしていない。単純に自分が「これがいい」「これを着ていると気分が上がる」と思う格好を追求している。
中学生の頃からレディースの服には関心があった。でも、それを着て出かけることなんてできなかった。30歳を過ぎてから、ようやく覚悟が決まってできるようになった。
100%男性であることしか許さない社会
「女なんかいいことないよ。男がいい」と思う人も多いだろう。私が女性の社会不適応者だったら、髪を短くし、男物を着て、粗野に振る舞ったかもしれない。そうして女であることから自分を解放しようとしたかもしれない。
しかし男っぽい格好で、男性的に振る舞うことは、女性のファッションのひとつとして認知されている。一方でフェミニンなアイテムを身に着けて女性的に振る舞う男性は「キモい」と言われる。
「そんなことはない。イケてるジェンダーレス男子は多い」という反論もあるだろう。ただ彼らはだいたい10代から20代前半ぐらい。極めて限定的な許容に過ぎない。
レディースを着たい=女性になりたいということではない。そのように決めつける人が多い。短髪でボーイッシュな女性を見て「あの人は男になりたいんだな」とは思われないのに。
少しの女性要素すら、すぐに嗅ぎつけられて、叱られ、指導され、嘲笑される。髪を伸ばすことも、アクセサリーを付けることも、化粧することも、花柄を選ぶことも、スカートを穿くことも難しい。男性は100%男性であることしか許されない。これが今私たちが生きている社会だ。
男性を抑圧する社会
レディースファッションなんて興味がないからどうでもいいと思う男性も多いだろう。でもそれは、こんな社会だから自分をそれに適応させた結果かもしれない。つまり抑圧の結果かもしれない。
レディースファッションに憧れても、男性である自分がそれを取り入れることは許されない。親も教師も兄弟も友人も、テレビも漫画も、その行為を「オカマ」と呼んで笑いものにしてきた(未だにしている)。
こんな社会では、その思いを否定するしかない。そもそも馬鹿にされる以前に、髪を伸ばしたくても、校則で禁止されている。就職活動では黒髪で短髪のみ。
髪を肩まで伸ばしたいだけで、少し明るく染めたいだけで、スカートを穿きたいだけで、職業が限られる。「まとも」な人生が遠ざかっていく。
男性がレディースファッションに憧れたら、待っているのは転落だ。日陰だ。「変人」呼ばわりされて、後ろ指をさされる人生だ。親兄弟や友人を失う覚悟を強いられる。
このように虐げられていながら「男尊女卑」で「下駄を履かされている」といって、虐げられている事実すら存在しないことにされてきた。
権力を持った男性(強者男性)と同じカテゴリーに入れられて、女性差別をする男性と同じカテゴリーに入れられて、攻撃されてきた。権力者や、性加害者と同じ性別というだけで、連帯責任を問われてきた。
個を抑圧しなくても生きられる時代
しかしこんな社会も少しずつ変わってきている。マイノリティを尊重する動きが広まってきた。
これまで女性的なものを取り入れたい男性の選択肢はふたつだった。自分の思いを追求して「まとも」から脱落するか、自分の思いを抑圧して「まとも」に留まるか。
今は第三の道が開かれようとしている。自分の思いを抑圧することなく、社会にも適応できる道だ。
そのような社会をつくり、維持していくために、自分ができることをしていきたい。できる限り自分の思いを抑圧せず、正直に生きていきたい。
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