江戸時代の人々の名前

こんにちは。

『氏名の誕生』という新書が面白かったので紹介します。

読んですぐに「紹介せねば!」と思ったのですが、簡潔に紹介するには複雑すぎました。以下、私が理解した範囲で説明しますが正確であることを保証するものではありません。あらかじめご了承ください。m(_ _)m

まずは紹介文を引用します。

私たちが使う「氏名」の形は昔からの伝統だと思われがちだが、約150年前、明治新政府によって創出されたものだ。その背景には幕府と朝廷との人名をめぐる認識の齟齬があった。江戸時代、人名には身分を表示する役割があったが、王政復古を機に予期せぬ形で大混乱の末に破綻。さらに新政府による場当たり的対応の果てに「氏名」が生まれ、それは国民管理のための道具へと変貌していく。気鋭の歴史研究者が、「氏名」誕生の歴史から、近世・近代移行期の実像を活写する。

何が面白かったか

現在の日本では子どもが生まれたときに主に親が命名者となり個人的な思いを込めた名前を付け、子どもはその名前を生涯使い続けるというのが当たり前になっています。しかし、それは時代に限定される特殊な状態の一つなんだと改めて気付かせてくれました。

今と価値観が最も異なると思ったのは、「ふさわしい名前を名乗る」ということでした。1人の人物でもライフイベントによって改名し、生まれたときの名前、成人してからの名前、家督を継いだときの名前、隠居してからの名前というように、それぞれにふさわしい名前に変える風習がありました。当主は親の名前を踏襲したり、その家の先祖に知名度のある人物がいれば代々襲名するといった「名跡」としての役割もありました。付けることができる名前には格式があり、集団の中で悪目立ちしないように役職や村の中の序列が重視されました。ただしある村では「~右衛門」「~左衛門」「~兵衛」を若者名に使うけれども、隣の村では若者名には使わないといったローカルルールには違いがありました。江戸時代の縦割り階層社会が名前にも如実に表れていますね。

また、医者や僧侶になったときもそれにふさわしい名前に改名する風習がありました。僧侶になったら改名するのは現在でも残っていますね。

何が複雑か

まず複雑な事の1つ目。「武家や一般人に広く使われるネーミングルール」と「公家で使われる少数派ネーミングルール」の2系統の存在があります。武家の方は「苗字+名前」で構成され、名前は「~三郎」「~右衛門」「~兵衛」のような昔の人の名前でありそうなもの。公家の方は「本姓+実名」で構成され、本姓は苗字とは別で存在し「藤原」「源」のような古代の父兄血族集団を表す「氏」に当たるもの。しかしその実態は実在した本姓を何も関係ない人が藤原氏、源氏の子孫だと擬称している場合がほとんどだったとか。実名は漢字二文字の現在でも名前と思えるようなもの。しかし「名前」と「実名」は受ける印象以上に全然別物でした。

歴史的なルーツをたどると、「公家のネーミングルール」の方が古代からの流れを踏襲した正統なものに見えますが、名前を直接呼ぶのを忌避する風習や他の事情があって「称号」で呼んでいたら、そこから派生したものが武家や一般人で定着してしまい江戸時代には大多数になっていました。

武家や一般人からすると「公家のネーミングルール」に該当する名前らしきものもあるにはありましたが、名前として使うものではなく鄭重な書面で花押に使うサインのようなものと化していて、一生に一度使う程度のものでした。

複雑な事の2つ目。「武家や一般人のネーミングルール」で付けられる名前に、朝廷の官位名も使っていたということです。「播磨守(はりまのかみ)」のような名前を呼称するからといって播磨国(姫路藩)で役職を持つわけではありません。武家の一定以上の役職になると名乗れる名前のリストがあり、その中から好きなのを選んで将軍に申請して承認されると名乗れるというルールです。好みや家の先例で選んだようです。そして、官位名が僭称にならないように幕府からまとめて朝廷に要請し、要請した通りに叙任されて記念に書類だけ発給されるという手続きが行われました。もちろん実際に官位名の職務を行うわけではありません。

要は「えらそう」であることが大事でその意味はあまり気にされていなかったということですね。格式を重視して「名は体を表す」としたいはずが、まったく事実と異なる官位名を使ってしまうという意味不明な状態ですね。これには当時の学者たちも苦言を呈していました。しかし広く定着してしまっていたので今更どうこうできるものではありませんでした。

幕府からすると権力に物を言わせて朝廷を利用しているつもりだったのかもしれませんが、これでは朝廷の権威が保たれてしまう一因となり悪手だったのでは…。というか朝廷の権威が江戸時代にこれほどまで大きかったんだと意外に思いました。

それからどうなった?

明治維新により名前についても大変革が起こりました。新政府は「公家のネーミングルール」を正式なものにしようと強行し「今更どうにもできない」と思われていた慣習までひっくり返します。官位名を名前に使っていたことも本格的に問題になりました。元々あった官位とは異なる名称の組織や役職を作るところから始まりますが、新政府の構成員は公家出身、武家出身など様々だったので当然大混乱が起こります。

王政復古の大号令から明治8年までの僅かな期間にルールがコロコロ変わり、結局公家と武家のルールが混ざって得体の知れないものになってしまいましたが形だけはシンプルに「氏+名」の形に落ち着きます。そして改名を禁止(事務手続きのキャパの問題)、全国民に苗字を強制(徴兵の利便性の問題)、など新政府が国民を管理する都合でルールが作られてほぼ現在の制度が出来上がりました。

人々がその新設ルールに従い適応した結果、現在の価値観が形成されてきたということですね。改名が禁止されたので、名前を見ればその人の地位などがわかる「名は体を表す」といった役割は失われた一方で、親が子どもに何らかの思いを込めて命名するという風習が新たに生まれました。ルールを作る者の意図(徴兵、管理の都合)とは関係ない事象ですね。

名前という身近なものですら歴史的に見ると全然当たり前ではないと、価値観について改めて考える機会になりました。

余談

同じ著者で『壱人両名』という本もあります。こちらは「1人の人物が2つの名前を持つ」という特殊な事例について取り上げながら江戸時代の名前に関するルールや風習を説明していているものです。併せて読むと理解が深まると思います。


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