毎日が天体ショー
ボージョレ・ヌーボーの『〇〇年に一度の出来栄え』同様に、『〇〇年に一度、次は〇〇年後しか見られない』が次々に訪れる天体ショー
『アトラス彗星が次に見られるのは8万年後なんやって!』と、同僚がネット記事やフェイスブックなんかの投稿やらを見せてくれた
見られると言っても、簡単に肉眼では見るのが難しいとか何とか
興味がないわけではないけれど、肉眼では見られへんのか〜、へ〜と聞いているこういう時間いつも思い出すお話がある
確か私の記憶が確かならば国語の教科書に載っていたお話で、題名も作者もどこの国のお話かも思い出せないけれど『なんでぶったの、おばあちゃん』という台詞が印象的なお話
『彗星の夜に』とかかな?と、検索しても出てこないし、いつの時の教材で出版社がどこかも覚えていない
祖母と彗星だったか流れ星を見に行った男の子が、『次に見られるのは〇〇年後かぁ』みたいな事を言った言葉か、その続きに放った言葉に対して祖母にぶたれるというシーン
次は僕死んでる、とか、そんな事を言ったんだっか、おそらく明らかに自分のほうが先に”死“を迎える祖母がぶったのだ
何を学び、どう考えたかさっぱり思い出せないけれど、天体ショーの話題になるとこの台詞が頭に思い浮かぶ
国語は好きで得意科目だったし、教科書に載っているお話というのは私にとっては魅力的で、何ならテストに出た文章題のお話も気になったり続きが読みたくなって本を探して読んだりしていたくらいだけど、こんなもんだ
家庭教師をしていたとき国語の教科の指導が一番難しさを感じた
受験対策だけならば、作品自体を書いた人の思いではなく、出題者の問いかけに対する答えだけを、提示されたごく一部分からのみ読み解くという事に徹し、あまり他の色々なことは考えず設問に向かう事が大事だと思う
本や文章を読むのが大嫌いな中学生にそれだけを教える事しか時間的にも出来なくて、そういった事を話せる関係性を作れなかった事は大変もどかしい
おそらく小学校入学してすぐ習う『くじらぐも』(たしかこんな題名)、もう少し進むと習う(多分)『スイミー』は絵本なんかでも読んでいて、かなりの人が親しみのあるお話だと思うが、レオ・レオニの名を覚えていなくても記憶に残るお話
この2つは幼稚園から小学校に上がって間もない児童が整列したり、みんなで決めたルールをなぜ守るのか、など集団生活の中で他者と多くの時間を送る中で学ぶことや考えるという事がねらいなんだろうか
そんな風に言っちゃうと急に味気なくなるな
『車のいろは空の色』などのシリーズものや、宮沢賢治の『注文の多い料理店』『セロ弾きのゴーシュ』『オツベルと象』(←習った順番や年齢はおそらくめちゃくちゃ)と言ったお話も好きだったけれど、戦時中の様々な場面が書かれた『ひとつだけちょうだい』(誰の作品か失念)や、向田邦子の『字のないハガキ』と言った物語、茨木のり子『私が一番きれいだったとき』や米倉斉加年『大人になれなかった弟たちへ』などは平和学習で戦争の悲惨さや無惨な様子を学ぶのとは方向性が違うけれども、未知でありながらいつ身近に迫りくるかわからない戦争観を大きく変え、大いに心に語りかけたものだった
学校に行けているのはおそらく当然だと思い、その頃はありがたみも感謝の気持ちもろくに持ち合わせてはいなかったと思うし、今でも悲しくなるほどに何事にも浅くていい加減で無知なまま歳だけとり、ただただ年齢的に言えば、”大人”になってしまった
国語が得意と思っていたけれどいまだに人の気持ちもわからない未熟なままの大人
でも、わかりたいともがき、必死で手を伸ばせばいくつになっても教え導き、またともに学んでくれる人も絶対にいる
ま、一生勉強って事ですね
そんな事をあーだこーだと思い出す、天体ショー真っ只中の、秋の夜長
題名と内容のちぐはぐさよ
『国語は得意だった』を『文章をただ読むのが好き』に訂正して、終わります
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