人生は、ジャケ買いの連続
昨日、友人と下北沢を散策した。
ある程度狙い通りのものをお互い買い揃えて、上機嫌で一杯ひっかけながら談笑する中で、「誰かとCD見に行くってすごいね」と言われた。
友人としては、誰かとCDショップに入って何の会話をするのか想像がつかないとのことだった。
彼はCDを買わないタイプなので、言い分としてはごもっともである。
俺は、その言葉への返答として、「お互いの好きなバンドの話をしたり、会話しながらジャケ買いを楽しむ」と伝えた。
友人としては、「ジャケ買い」という文化そのものがそもそもよく理解しておらず、当然簡単な説明をする必要があったのだが、ここでふと、「なんでジャケ買いをするのだろう」と自分に問うた。その理由を具体的に言えなければ、やる意味がないと言われても仕方ないと感じたからだ。
少々考えたのち、俺は「今日みたいに古着を見つけたり、道を歩いてて突然写真を撮りたくなる感覚でCDを選ぶこと」だと説明した。
古着屋巡りは容易に想像できるだろう。「たまたま」琴線に触れてきたものを買うという行為の対象が、服かCDかの違いがあるだけだ。
写真を例に挙げたのは、向かいで串揚げを食べる彼が、写真や動画で生計を立てているからである。彼は、街を歩く中で「ここは画になりそうだな」と思ったらすぐ素材にできるよう行動する人間で、その感覚がジャケ買いの「突然の出会い感」に似ていると考えた。
幸いにも彼は理解力のある男なので、この拙い説明を噛み砕いてくれた。
俺は、説明を終えた後、これらの行動に共通する点を見つけた。
それは、「偶然性」と「体験価値」である。CDをジャケ買いする時、当然中身の曲は知らない。でも、ジャケットのデザインと「もしかしたらいい曲が入っているかもしれない」というワクワクに金を払う価値があると思うから、ジャケ買いをする。古着屋も、「ここを逃したらもう二度と同じものには出会えない」という偶然性と、「誰とも被らない個性的なデザイン、記事の質感」に価値がある。写真も、「『オススメ写真スポット』と検索しても出てこないような街の雰囲気」や、「今、自分がそこにいるから分かる景観」に価値がある。
この、偶然性と体験価値に魅力を感じないタイプの人は、知らない国の知らないバンドを聴くという綱渡りはしたくないだろうし、ブランドのオフィシャルサイトを家で見ながらコーデを考えられるし、有名な観光スポットへ行くだろう。
もちろん、それが悪いことでは全くない。俺だって、持っているCDの多くが熱く語れて聴き込んでいるアーティストのものだし、好きなブランドは当然あって、ネットストアもよく使うし、有名な観光地の景観が息をのむほど美しいのは当然のことだ。でも、そこにプラスアルファの偶然性から生まれる体験価値を求められるような、”遊び”のある感性が、俺は大切なのかもしれないと思ったり、思わなかったり。
実際に、一年半ほど前にジャケ買い(成功)したEP。
収録曲「イメージング」の、サウンドクラウドのリンクを貼っておきます。