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ショートショート#4「天使と悪魔と田中」
中学2年生のとき、同じクラスに田中カケルという奴がいた。
よくつるむメンバーの一人で、今でも忘れられない人物だ。あいつは今、どんな人生を送っているのだろうか?
明るく振る舞いつつも、たまに見せるどこか影のある表情、アンニュイな視線、独特な言葉選び、達観した価値観…人生何週目なの?と思うくらい落ち着いた姿。
当時、厨二病真っただ中だった僕は、唯一無二の存在”田中”にひっそりと憧れていた。
中2男子なんてのは、そこらじゅうに転がる猥雑な情報を頭いっぱいに詰め込み、それを何十倍にも膨らませた妄想に興じるのに精一杯な年頃だ。そんな連中だらけだっていうのに、田中は一人、大人だったのだ。
よくあったでしょ、授業中に先生がキレて職員室に帰っちゃうやつ。なにかが気に食わなくて「もう授業はやらん!お前ら好きにやっとけぇ!!」って教室から出ていくあのイベント。そんな時も田中は率先して先生に謝りに行っていた。
「先生、この度は締まりの無い態度で授業に臨んでしまい、申し訳ありませんでした。クラス全員、反省しております。”中だるみの2年生”などとお叱りをいただくのも無理ありません。ですが、良し悪しの判断を間違う時には、やはり先生に導いていただきたいのです。先生、どうか教室に戻っていただけないでしょうか。お願いします!」
田中は、怒りへの”共感”と、相手への”敬意”を兼ね備えた謝罪をやってのけたのだ。おおよそ14歳のなせる業ではない。「自分は必要とされている」と感じたのだろうか、戻ってきた先生はすこし嬉しそうに授業を再開した。
他にも、同級生が万引きする瞬間を目撃した際には
「俺は君の人生がどうなろうと構わない。でもね、残念ながらその罪はどこまでも君に付いてくる。特に学生の間は、必ず評価に影響する。その後、どんなに良い行いをしても、頭にバッテンはついたままだ。大人になって働きだしたら、こんなものいくらでも買えるだろう?その場の欲望に踊らされてはいけないよ。」
と咎め、未遂に終わらせたり、
片思い中の相手に当たって、見事に砕けた僕へは
「君が彼女のことを大切に想っていたこと、俺らみーんな知ってる。だからこそ辛さも分かる…。君が彼女を想っていたのと同じように、君のことを大切に想ってくれる人が現れるさ。大丈夫!さぁ笑って!人生まだまだ、これからだよ!君のいい所は、俺らみーんな知ってる。そこを素敵だと思ってくれる人はきっといる。よし、給食のクレープやるよ。元気出しな。」
なんて言いながら、給食人気トップクラスのクレープまで振る舞ってくれた。クレープを食べ終えるころには、すっかり前向きになっていた。
本当に中2なのか?ただ謝るわけでもない。正義を振りかざすわけでもない。やたらと慰めるわけでもない。なのに、なぜか人を動かす。田中の周りには自然と人が集まっていた。
厨二病を拗らせ、「自分は他の人とは違う」と思いたいのに、何者にもなれていない影の薄い僕には、田中が眩しくて仕方がなかった。もしかしたら、とてつもないほど、羨望の眼差しを彼に向けていたのかもしれない。
中学3年生に進級する頃、田中は忽然と姿を消した。ご両親に不幸があり、親戚のもとへ引き取られたそうだ。田中が居なくなり、学校全体の雰囲気が少し暗くなった気がしたが、何事もなく日々は過ぎた。
僕はというと、田中への憧れを抱いたままだった。
ことあるごとに「田中だったらなんて言うだろう?」「田中だったらどう考えるだろう?」「田中だったら、どう感じるだろう?」田中だったら…田中だったら…と考えてしまう”田中だったら”の呪いに憑りつかれていた。
脳内会議の場に田中が居るのだ。言ってしまえば天使と悪魔と田中状態。
道端に落ちている財布を見つけた時も
天使「交番に届けよう!」
悪魔「もらっちまえよ!」
田中「見なかったことにすれば良い。良い行いをした清々しさはないが、良心の呵責に苛まれることもない。面倒事には蓋をしたって良いんだ。」
なんとなく部活をサボりたい時も
天使「なまけてはダメ!成長しないよ!」
悪魔「1日くらい構わないさ!たかが部活だろ?」
田中「悪魔の意見も一理ある。所詮は部活だ。1日くらい休んだ方が良い。でもなライバルは今日も練習をしている。これが何を意味するか分かるな?」
天使・悪魔「…」
いつしか天使と悪魔は何も言わなくなった。世の中には白と黒では判断出来ないことが山ほどある。白と黒だけで解決なんて、傲慢なのかもしれない。田中という第三者がくれるグレーな意見のお陰で、僕は生きやすくなった気がしている。気づけば田中の意見を一番に採用するようになっていた。
大人になった今も、脳内会議に田中が居る。大学受験で迷った時も、就活で迷った時も、会社をサボろうか迷った時も、飲み会に行こうか迷った時も、転職しようか迷った時も、彼女にプロポーズしようか迷った時も、田中の意見を尊重してきた。そして、それらは全てうまくいっている。田中には足を向けて寝られない。
ある日、夢に田中が出てきた。相変わらず、アンニュイな視線を僕に向けている。これまでのお礼を言いたくて、僕は彼に近づいた。
「なんだか満足そうな顔をしているな。順風満帆って感じ?良いことだな。幸せそうで何よりだ。」田中の方から話しかけてくれた。
「そうなんだよ、田中のお陰で僕の人生は明るくなった。いつも的確な意見をくれて感謝している。本当にありがとう。」
「君は昔から俺にキラキラした眼差しを向けてくれたね。だから心に入り込みやすかったよ。盲目な信者がいてくれて助かった。俺がこうして生きていられるのは君のお陰だ。こちらこそ感謝してるよ。ありがとう。…それで、これは本当に君の人生なのかい?君が選んだ人生と言えるか?」
一体どういう意味だろう…?これは僕が選択してきた人生だ。疑問なんてない。聞き返す間もなく田中が話を始める。
「俺は田中カケルではない。カケルが作り出したもう一つの人格、ミチルだ。周りには気付かれていないけど、アイツ、母親とその再婚相手からあまり良い扱いを受けていなくてね。自分を守るように、もう一つの人格を作り出した。それが俺、ミチル。
本当のカケルは、お人好しで優しくていつも正しい…例えるなら天使みたいな心の持ち主だ。”ちょっと疲れたから休ませて”って言って、ほとんど表に出てくることはなかった。だから普段は俺が表に出て、カケルとして生活をしていた。まぁ俺は面倒事に蓋をする性格だから、親の嫌がらせなんてどーでもよかったし。
ある日、カケルはこの世の理不尽に、ついに耐えられなくなった。突然表に出てきて、アイツらを地獄に突き落とした。普段大人しいヤツが突然キレる瞬間のエネルギーって半端じゃないよな。天使は悪魔へと成り変わった。
”もう、一人で大丈夫だから、ミチルはミチルの人生を生きてよ”そう言って俺の意識を切り離したんだ。引っ込み思案のアイツが自分の道を歩き出したんだ。俺は喜んでカケルを送り出した。その後アイツがどうなったかは知らない。
”ただの意識”として彷徨っていたところ、君に辿り着いた。”羨望の眼差し”のお手本みたいな眼で俺を見ていただろ。何不自由なく暮らし、苦労を知らず、ただなんとなく生きて、何者にもなれず燻っている君はちょうど良い器だった。君が抱いていた憧れが誘い水となり、俺という意識をすんなりと受け入れてくれたよ。
君の中に入り込んでからは、ご存知の通り。脳内会議を俺の思った通りに進めるのは簡単なことだった。白と黒のモノクロ世界しか知らない天使と悪魔は、見知らぬ色である俺を目の前に、黙ることしか出来なかった。
君が選択したように見えて、俺の思ったように選択させられていたのさ。君の意識の奥深く、どこまで行っても、君には”自分”が無かった。そのお陰で俺は俺の人生を歩くことが出来た。
…もう言葉を発することも出来ないようだね。完全に君の意識は俺のものになった。あぁ、君の分まで幸せになるよ。ゆっくりおやすみなさい。」
朝になり、ゆっくりとベッドから起き上がる。今日は彼女のご両親へ挨拶に行く日だ。あの時言ったように、自分を大切に想ってくれる人が現れてくれて、本当に良かった。鏡の中に写る自分の顔は、緊張からか少し強張っている。…大丈夫!さぁ笑って!
俺は幸福に満ち満ちた笑顔を浮かべ、出掛ける準備を始めた。