学習理論備忘録(28) 『皮膚の下に隠れて生きる?』
(前回、前々回を少し書き換えた)
強迫ひとすじ34年の原井クリニック(*1)の抄読会の備忘録は続く。まさにクリニックが対象としている疾患の強迫関連の話が続いていた。
(*1)強迫もひとすじだが、何年経っても「34年」である。(『ど根性ガエル』の「教師生活25年」みたいなものか)
これまでの話をまとめると、パニック症ではドキドキするのが手がかり刺激にして「これがパニックの原因だ!」と帰属し発作を起こしているかもしれなかった。強迫症は嫌悪・汚れの感覚を、例えば「体の汚れが原因だ」と帰属するのかもしれなかった。どちらにも帰属の誤りがあった。
またそのような誤った帰属の元に生じる回避や強迫行為は、条件制止としては長い効果を出さない。それでも一時的な解放としてそれらは機能する。本当の原因が分かりにくくなる上に、根本的な解決法も遠ざかっていく。それがまた、治療者をも混乱させることになる。
実は" Learning and Behavior Therapy "第5章の話はこれで終わって、次は第6章、LATENT INHIBITION AND BEHAVIOR PATHOLOGY: PROPHYLACTIC AND OTHER POSSIBLE EFFECTS OF STIMULUS PREEXPOSURE (潜在制止および行動病理学:先行呈示の予防的およびその他の考えられる影響)である。
だが、ここでもパニックの話を関連させてみる。また薬の話を。
あなたがパニックを止めるということで「パニックオサエルン」という薬を飲んでいるとする。劇的に効いたということでもなかったのだが、そこそこ効いたことがあった。それで、パニック発作があろうとなかろうと、常に薬を飲むようになった。
やめることもせず、「治したければこちらのほうがいいよ」と医者に勧められている薬に変えることもせず、パニックオサエルンをくれとせがみ続ける。処方してよい期間を過ぎても無理やり処方してもらい、もはや医者から「やめたほうがいいですよ」とも言われなくなり、そもそも薬の話題すらもしなくなり、漫然と処方だけがされるようになる。
で、実は、パニックオサエルンは、パニック症を治す薬ではなかった!
それどころか、あるときから副作用が出て、実は薬を飲んでいるときにパニック発作が出ていた。だが薬を飲んでいる本人は、パニック発作と薬の因果関係を学習しない。
これが、潜在制止の例だと言えよう。
まず「潜在」という言葉から。なんかフロイディアンの精神分析を思わせるような(「潜在意識」みたいな感じがする)、ハリアン(*2)の新行動主義を思わせるような響きがある。それで気持ち悪がる人がいると困るから、説明しておく。
「潜在」とは、なにも起こっていない時間があり、影響があとから出る、という意味である。学習がされている当初には、なにが学習されたか全く分からないから、このような言葉が使われる。そう、ワトソンのような行動主義に基づけば、測定されるものだけが論じてよい対象だ。だが上の薬の例で言えば、
「『薬を飲むとパニック発作が起こる』ということをなかなか学習できない」
という影響は、ずっと以前に薬を飲んだことによって起きているのである。これは、最初の時点では測定されていないことである。
この、条件刺激と無条件刺激の連合が遅延するという現象はLubow と Mooreが1959年に述べたものだ。
(*2)ハルはスキナーと同時代の人。新行動主義者は他にもトールマンとかがいる。
「有機体(=生き物のことだが、ほぼ脳のことだと思ってよいかと)の仕組みや性質ってこんなんじゃないのか、ほらそう考えるとこんなにうまくいくじゃん」みたいな考え方をした人。私は好き(操作主義が好きなので)。昔は超もてはやされた時期があったらしい。
だが今、彼の話はほとんど出てこない。歴史的には重要なので試験には出る。
さや香、アスカ、道端アンジェリカ。誰でもよいが女性にいじめとか恐喝をされるとする。「あんたバカぁ?(刺激A)」殴られる。ギャー!
あなたは、丸くなって腕を顔の前に出してブロックする。(行動であるが、ここでは刺激Bとして扱う)ブロックして被害を軽くするつもりかもしれない。
だが、いつもブロックしている(先行呈示)。
やがてあなたは、身をかがめてブロックしているといじめられる。そういうことはよくある。いじめられっ子は、いじめっ子にいじめられっ子としてのキューを出す(*2)。いじめられっ子の抵抗は、いじめっ子にとってのご褒美になる。
「いつもブロックする状態」
→ (今はまだ見えないが、ある学習が成立している)
→→ 「ブロックしているといじめられる」
だがそれがなかなか学習できない(だからブロックを続けてしまう)
(↑ という影響がようやく観察できた!)
これを「潜在制止」と言う。
(*2)これはいじめられっ子がいじめられる理由の話であり、行動の原理に従う2つ以上の有機体の話であるから、システムズアプローチにも通じる興味深い話である。
ただ「いじめられる理由」の話をすると、「いじめられっ子に原因はない!」と直情的に言う人がいる。それは「いじめられる理由」という言葉を聞いたとたん「お前はいじめられるほうが悪いと責める極悪非道なやつだ!」と脊髄反射的解釈をするからである。
理由を問う作業は、人を防衛的、攻撃的にする。人は「なぜそんなことをしたの!(あるいは「しなかったの!」)」という形で怒られることが多いせいではないかと思われる。
だが責任だとか良し悪しだとかを切り離しても、理由は存在する。存在すると断言するのが良くなければ、少なくとも問う対象にはできる。『被害者学』は、被害に逢う理由を研究する立派な一学問ジャンルである。
(・・なんてことを書いたが、いじめられっ子の例をひきあいにして説明を続けていると、自分がいじめられっ子になったように感情移入してしまい、ちとツラくなってきた)
「たしかに潜在していますよね。つまり、なんかが脳とか心とかなんかの中に潜んだってことっすよね」
と考えるのはちと早い。たしかに「学習の遅延」は実在する。だが「潜在」という言葉には引っ張られないほうがいい。
行動主義では、外から見えるものについては研究対象にしてきたが、「皮膚一枚から下」のことについては、口にしないという習わしがあった。だが上のように、「潜んでいるなにか」があるかのように考え、語るとすれば、それは直接見えているものではない。
それを踏まえた上で、「ただその理屈を厳密に考えていくのは、それなりに意味があるよなあ」という立場に立つことにするならば、以下の議論に参加してよい。ここからは仕組み、理屈、解釈の世界だ。
学習が遅延したことについては、2つの解釈が考えられる。まず、「連合の低下」(reduced associability)という見方がある。「ああ、ブロックしたときはかえっていじめられるんだな」という結びつきを得ること自体が弱まるという説明である。
もうひとつのモデルは、「取り出しの失敗」(retrieval failure)である。「ブロックしたほうがいじめられるってのは分かるけど、いざとなると忘れちゃってついついやっちゃうよ、トホホ」と、学習を思い出す、取り出すのに失敗する、と考える。
最初から「学習が妨げられている」説(伝統的な説)と、後から「つい忘れる」説(新説)、いずれでも潜在制止は説明できてしまう。これに加えて、もっとも新しい説では「先行呈示中に被験体は複数の連合を学習し、その中から『ブロックしているといじめを受けない』という記憶ばかりを取り出している、なんていうのがある。
この理解が難しかった。ここで書きながら理解する。
まず、
・「ブロック」 と 「いじめられない」 の連合
・「ブロック」 と 「教室」 の連合
・「教室」 と 「いじめられない」 の連合
などがある。さらに、
「教室」 と 「『ブロック』→『いじめられない』」 の連合
までもがある。連合の連合である(この場合の「教室」という文脈は、場面設定子とか機会設定子などと呼ばれる)。
これだけ連合があると、ちょっと混乱する。少なくとも、
「ブロック」 と 「いじめられる」 が連合する
だけよりはずっとややこしい。
そういうわけで潜在制止が起こるというのだ。これは先の2つの説明のどちらかとも矛盾しない。このようなややこしい理屈があってこっちが混乱するが、まだどちらの説明が正しいとかは議論されているところだし、裏づけるデータも少ない。
とにかく潜在制止というものがあることはたしかだ。
Ver 1.0 2021/3/20
Ver 1.1 2021/3/26 この章のタイトルの訳を訂正。この後また変える可能性もある。
学習理論備忘録(27)はこちら。
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