学習理論備忘録(4) 「迷信」について考えを改めたほうがいいのは医者のほうかもしれない
(蝶はギリシャ神話のプシュケーを表すのに用いられ、魂の象徴とされる。そのせいか、死を表す不吉なものとみなされる迷信もある)
反応と結果の独立性を理解することは難しい。
紐を引いたら、鐘が鳴った。
こういうとき、すぐさま
「紐を引くと、鐘が鳴る」
という信念が形成されやすい。
これは、紐をひいた時刻と鐘が鳴る反応の時刻が短ければ短いほど(引く前はだめだが)確信されるようになる。
逆に長いとそのような信念は成立しづらくなる。
(「信念」という言葉、つまり頭の中の話を避けたい人は、「鐘が鳴るのでまた紐を引くようになる」という行動の話として読んでもらえばよいのだろうが、本稿では頭の中の事象である「思考」についての言及は、してもよいことにする。以上、行動主義者へのお断り)
だが、この紐引きと鐘の音の因果関係は、本当にあるかどうかは、仕掛けを調べることができない場合、確率的にしかわからないはずである。無論、引いた時刻と鐘が鳴る時刻が短ければ短いほどそれが偶然で起こる確率は低いから、上のような推論をするように動物が作られているというのは理に適っていると言える。
だが、本当に偶然であることもあるはずだ。
それでも確信してしまい、その確信の下に行動が強化される場合、その行動は「迷信行動」ということになる。思考も行動だとすれば、そのように「迷信」を信ずること自体も「迷信行動」である。
行動分析の世界では、実験系の中でのハトの迷信行動が有名である。
さて、たとえば紐を引いたとき、なにかが起きないということよりも、なにかが起きるほうが信念(ルール)が成立しやすい。
紐を引いたとき(関係があるのであれ、偶然であれ)鐘が鳴る
→ 「紐を引くと鐘が鳴るのだ」
紐を引いたときは(絶対に)鐘が鳴らない
→ (特に学習なし)
あるいはもう少し微妙な因果関係として、出来事の時間間隔が変わる例を考えよう。
紐を引くと、次の鐘が鳴るまでの時間が短くなる
→ 「紐を引くと鐘が鳴るのが早くなるようだなあ」
紐を引くと、次の鐘が鳴るまでの時間が長くなる
→ (特に学習なし)
これは、予防医学が難しいということを表している。
片頭痛の治療で、頭痛の間隔を伸ばしていく、というものを聞いたことがある(詳しく調べてはいないが)。
人は「ある」ものには注目して囚われやすいが、「ない」ものには関心をよせづらい。頭痛が「ある」ときにはあれこれ関心を寄せてしまい、「これさえなくなれば」などという考えで頭をいっぱいにしてしまう。
だが、頭痛が「ない」ときにはあまり注目しない。
だからこれは、不定愁訴を含む「症状」にやたらと注目しすぎる「身体症状症」系の疾患の患者にも共通する。さすがにある日パッと症状がなくなってスッキリ爽快になってしまったら「先生!おかげさまでよくなりました!!」と感謝感激なのだろうが、そういうのは水銀のような毒でも飲まない限り起こらないだろう。
どんな症状も永久に同じ強さで続く、というもののほうが実は少ないから、ある日症状は軽くなっていたり、ことによってはなくなっていたりするはずである。だが、そっちには注目しない。
患者は「今はこんなことが大変で・・」と、その人にしか分かりにくい一種独特の体の感覚を、なんとか他人に分かってもらおうと言葉を尽くし、ということはふだんそのようなことばかりに気が向いておりそのことをずっと考えているものと思われる。
治療は、「ない」のほうに注目するらしい。なにかをすると、頭痛等の症状の頻度が減ったり強さが弱まるということはあるはずである。ゼロかイチでなく、頻度を伸ばす、強さを減らす、である。たまに頭痛があることは織り込んで、それでもなにかをすると、全体としては軽減しているという手応えを確かめ、それをもっと伸ばすようにしていくというのである。
気がつくとある日、すっかりよくなっている、ということだろう(片頭痛の各論については先も述べた通り私は知らないが、あらゆる問題について、解決思考アプローチでも似たようなやり方で解決する)。
伝染病なども「ある」には注目され「ない」は気に止まらない。だから政府が手を尽くしてピークを抑える、ということに成功したとしてもーーそれは感染症対策として完璧な対応なのだがーー「まだ続いている」などの苦情が続いた果てに、撲滅した際にはもうかつての対策のことなどすっかり忘れられるものかと思われる。行政の仕事というのも大変である。
さて、私は意外なことを学ぶ。
「迷信行動」、あるいは「誤った信念・思いこみ」は必要なものなのかもしれない
ということだ。
学習性無力感のおさらいをする。反応と結果に「関係がない」、もう少し専門的な用語を使うと「独立である」とする。この「独立性」を学習する(ここでは「知る」とか「気づく」という意味だと思ってもらってよい)と、無気力になってしまう、というものだ。
平たく言うと「なにやっても無駄!」と思うとうつになってしまう、ということだ。
ここに、「いや、こうすればコントロールできる!」と考えるとしたらどうだろう?それが正しくなかったとしても。
世の中には数多くの迷信・民間療法というものがある。科学的実証を重視するよう慣らされた医者という集団には、その手のものは大変に不評であり、患者に悪感情さえ抱く原因となる。
だがちょっと考えてほしい。もし、それらの迷信のおかげで、「うつ」にならないですむ、という話があったら?
民間療法をする人、というのは、そこに希望を持っているわけであり、その意味ではあくまで病気に対して主体的である。「あきらめ」ていないのである。
「あきらめ」を学習することで学習性無力感に陥りうつ病になる、というのは裏返せば、言葉は悪いが「あきらめが悪く」「悪あがき」をすることでうつ病にかかるのを防ぐことができる、とも言えるのである。
ガンなどの病気は確率で決まるものであるし、身長や目の色など(実はもっと細かいことまで決まっているが、書くと怖くなるのでやめる)遺伝で決まっていてどうにもコントロールしようのないもの、というのが世の中にはたくさんある。ある種「運命」と言える。
べつに神様が運命を決めると信じても、ラプラスの悪魔のような物理的な世界観を抱くであっても同じだが、「決定論」的世界観というものがある。この先のことはすべて決まっている、という考えかたである。このような考えを持つ者は無気力になりやすいという話を聞いたこともある。未確認だが、ここまでの話とも辻褄が合う。ありそうだ。
どうにもできぬものをどうにもできぬと言うのはもっともである。だがそれでは元も子もないのである。真実を言うだけの学者なり医者なりには、人はあまりいい印象は抱かない。
そこでだれかが「誤っているのであれ努力の余地を残してあげる」ことは、すなわち「いい夢を見させる」ことは、罪なのか、善いことなのか、とても難しい哲学的な問題である。
どんなに努力の余地がないことであっても、最後に「祈り」だけは残る。
人にとっての宗教というものの意義も、神なき時代にこそあえて考え直してみたほうがよいかもしれない。
うつという症状には利点がある。エネルギーをセーブできるのだ。疲弊しすぎず、そのおかげで死なずにすむということさえある。
うつはエネルギーを残す戦略
迷信はエネルギーを奮い起こす戦略
とまとめられる。メリット・デメリットが違うだけで、良し悪しではない。
民間信仰に走ろう(←この言葉にすでに価値判断が入っているが)とする患者に出会ったとき、医者がまず思うべきは、己がその人には無力に映ったということである。さらにその患者は、主体的に病に抗い生に向かおうとしている尊い存在なのだ、ということである。
その上で、その行動のメリットとデメリットを、広い視点から真剣に考える必要があるかもしれない。
(この一連の記事はLEARNING AND BEHAVIORを勉強した上での備忘録です)
Ver 1.0 2020/7/17
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?