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学習理論備忘録(19) お嬢さん、お逃げなさい

「悪い子はバンバンバン!」

そういう教育はしてこなかったはずなのに、どこで覚えてきたのか、娘がよく使う口癖だ。将来警察官にでもなるのだろうか。




今私は、看護師の国家試験の問題を見ながら、授業のことを考えている。さらにさらにさらに学習理論を離れてしまいそうだ。精神科医療の話である。行動制限の話だ(ところがこの話は、学習理論に帰ってくる)。



チャールズ・ルイス・ミ ュラー作の、精神科医ピネルが精神科病院の男性患者を鎖から解放する姿を描いた絵がある。鎖は物理的な行動制限であるとともに、社会的にも患者を施設に繋ぎ止めてきた象徴である。ピネルはそれを改革したとされている。

ただ、この絵のピネル像は現在、精神医学史的には正しくないものとされている。間違っているという点を挙げると


・ピネルが直接患者を解放したとされる病院はサルペトリエール病院である。サルペトリエール病院は女性患者の病院であり、ピネルがいた男性患者のいる病院はビセートル病院である。こちらでは患者を解放していなかった。


ということだ。史実にそぐわないからかは判らないが、ビセートル病院の絵は教科書などであまり引用はされない。ただ、もっと有名な、サルペトリエール病院にいるピネルの絵があり、そちらが優れていて(史実にもそぐうし)引用されるので、古く描かれたほうの絵が脚光を浴びていないだけかもしれないが。


だが、わたしはビセートル病院の絵のほうに注目する。絵画というものは写実をするだけのものではない(写実もあるが)。むしろイメージとして皆に思われている姿を描かれる、というのは昔の絵画っぽくていい。かつて芸術は神、もしくはそれに近い者を対象にしたが、その後は人間賛歌となった。つまりピネルは英雄であり、患者解放は英雄譚なのだ。



さて現在の日本の精神科病院でも、保護室隔離・身体拘束はある。ただそれには精神保健指定の診察が必要であることが精神保健及び精神障害者福祉に関する法律《精神保健福祉法》で定めてある。

精神保健福祉法はその成立の歴史的経緯からも、精神科患者のを自由を制限することで社会のほう守るという意図があることは否定できない。だが、きちんとした手続きを経なければ精神科では隔離・拘束はできない、と捉えれば、患者を守るための法律である。だから精神保健 " 福祉 " 法なのだ。


内科など、精神科以外の身体科での身体拘束は、しないにこしたことはないが絶対にダメではない。だから医師の気分次第で患者をしばりまくる、などということも可能だろう。なぜ精神科患者の人権だけ整っているのかと疑問に思われるだろうか?

精神科では法律で縛りをかけないと、医療者が行動制限の乱発に走りかねない、と考えられているからだ。


「お前ちょっと今態度悪かったな。保護室に入れ」

「お前、今睨んだな。縛るぞ」


ということがまかり通ってしまうかもしれない。実際これだけ法律で厳しくしていても、カルテの体裁と書類を整えさえすれば隔離も拘束も可能であり、過剰な拘束を前提としたとんでもない治療をする病院の話や、いじめ・虐待に近いことがされる例については時々聞かれる。

精神科医・医療者と患者の力関係は、医療者優位な方向に傾きやすすぎる。だから精神保健福祉法は、それに歯止めをかけるための法律としての意味が大きいと思われる。


行動制限が、患者本人と周りを守るためにある、ということであれば、医師は純粋に患者の暴力や自傷のリスクだけを見積もって最低限の行動制限をすればよい。ところが歯止めの効かない虐待というものは、しばしばもっともらしい言い訳や大義名分を持っている。

ここでのそれは、「隔離・拘束は治療である」というものだ。


これについては、行動療法の名前が悪用されている例を知っている。悪用でなければ、控えめに言っても誤用である。

行動療法では、最初に治療の契約がなされる。そこで看護師が患者に「私は行動療法のために、今後言うことに従わなかった場合隔離室に入ります」と患者に一筆書かせているのである。患者と医療者の力関係の間では、対等な契約は成立しがたい。それは単なる強制であろう。


病気であるが故に他人に害を為す人がいるのは事実である。だからそれについては放っては置けない。つまり社会を守るための治療というものがある。他害しなくなるようにする、ということである。すると一般的に考えられがちなのは、" 罰 " を与えれば良い、ということである。

この " 罰 " という言葉は注意して使う必要がある。行動分析の専門用語としては、「効果のあるもの」以外、罰とは呼ばない。

一般の用語としては、罰は「懲らしめること」というニュアンスを含む。「懲らしめる」とは「懲りるようにする」ということである。「もうこんな目に逢うのはこりごりだ」と思わせて、「悪いこと」をしないようにする、というものだ。

そこには、「他人に迷惑をかけたぶん、苦しい思いをしてもらわないとこちらの気が済まない」という「応報」を求める心情や、憎しみといったものが見え隠れする。犯罪者に刑罰を与えようとするときに抱くものと同じである。


精神科病院への強制入院、隔離・拘束は、そうした「苦しめ罰する道具」として容易に使われかねない。看護師などの専門職にも、そもそもがそういう意味のものなのだろうと誤解されがちである。


そもそも行動制限によって人の行動を変えられるか、ということを検討してみよう。

隔離というものは、行動療法の文脈で考えれば " タイムアウト " というものになる。これは育児の場面でも使われるので、少しは知られた方法かもしれない。だがタイムアウトには誤解も多いし、実際には難しく、指導を受けながらやる必要があるものである。

そもそもタイムアウトの意味は、当人にとって「楽しい」ーー楽しいという言葉を使うのを避けたければ、当人が自発的に高頻度にするーー活動ができる時間をまず " タイムイン " とし、そこから出すことである。禁錮・懲役を " 自由刑 " と呼ぶが、意味合いは同じである。

ということは、行動分析的には「ご褒美を奪う」というネガティブフィードバックをしていることになる。


その観点から気をつける必要のあることが浮かび上がってくる。


・行動制限を用いて行動変容をするのであれば、タイムアウトは積極的に「嫌なものを与える」というものであってはならない。

むろん隔離室でやりたいことができなくのであればそれは「嫌な時間」になるのかもしれないが、ここでは寒さ・暗さ・怖さ・臭さ・恥ずかしさ、といった苦痛を第一の手段としてはならないという意味である(「正座をさせて反省させる」なんてのは論外だ)。飽くまで、「本人が悪いことをしなければ手放さないで済んだご褒美の得られる時間」を奪うのである。

また身体拘束は著しい苦痛を伴うので、強化子を奪うのではなく、弱化子を与えるということになるだろう。苦痛の割に効果がさほど大きくない、倫理的にも極力避ける行動変容法になってしまう。


・悪い行動に対しては、行動制限が速やかになされるほうが良い。

しばしばあるのが、過去の盗みなどがしばらくたってから判明し、そのことで懲罰的に行動制限をしようとする例である。ことによっては「盗む」という問題行動は、現在はなくなっているかもしれない。行動が変わることが治療としての目的であれば、過ぎたことは問題にする必要はないはずである。

証拠が見つかって犯行を立証できてから檻の中に入れる、というのは司法の発想である。治療ではない。

逆に取り決めがあるにも関わらず、悪い行動をしても行動制限がなされないようなことがあれば、行動制限の効力は薄れるであろう。医療者の気まぐれでたまになされる隔離は、される本人に苦しい割には、行動の歯止めにはなりにくい。こういう場合、本人が悪いと言うよりは、治療が悪い。


・行動制限されるほうが利益が得られるようなことがあってはならない。

これは患者さんの立場からは喜ばれるかもしれないが、治療効果がなくなるという点でよろしくないのでやはり述べておく。かえって問題行動が悪化する。

あえて刑務所の例をあげるが、刑務所の保護室は冷暖房完備でかえって快適なことがある。

刑務所に冷暖房なんていらない、なんてことが言えるご時世ではもはやないと思うのだが、一部の刑務所ではやむを得ない事情で一般の居室に冷暖房がない。だが保護室では何か問題があってはならないということで、夏は涼しく、冬は暖かくなるよう作られている、ということがありうるのだ。

懲役であるにも関わらず刑務所内で暴れ続けることで、一度も働かず保護室で過ごして刑期を終える者がいるのは事実である。保護室に入ることがご褒美になってしまっている。これでは何のための懲役であるかわからない。

精神科病院なら、大人数が苦手で一人になりたい人もいるかもしれない。その意味でなら隔離室は治療的かもしれない。ただ、タイムアウトとして行動変容には利用できない。むしろ変えようとしていた標的行動は悪化するだろう。



以上、行動制限による行動変容について述べてみたが、そもそものところ、いくら治療的に使える可能性は少しはあるとは言っても、そういう意味での行動制限が法的に許されているわけではない。

それに、隔離は行動変容の方法としては効率が悪い。悪いことをやめさせるには、悪いことに替わる行動を身につけさせる必要があるわけで、それさえもできない環境に置いてしまうとそれができない。やるならば隔離は、短い時間であるべきだろう。それも外から鍵までかけなくてもうまくいくように、工夫することはできるはずだ。


こんなことを注意喚起しなければならないのが医療の現場だ。行動制限を最小にするための委員会を設置することさえ病院に義務付けられている。精神保健福祉法という法律が作られ、精神保健指定医なるものまで設けられ、行動制限に縛りをかけているのには、ピネルのなしたとされる医療改革(というよりは社会改革)の歴史と繋がっていると私は思う。

人類は歴史から「歯止めがなければすぐにかつての人権無視に戻ってしまう」「性悪説を踏まえたほうがよい」という学びを得たのだ。



だがちょっと待てよ?この、つい患者を縛ろうとする医療者が、こんどは法律に縛られているのではないか?

これは入れ子構造だ。これじゃあ医療者も本質は変わらないかもしれない。



ピネルの絵画が示すのは、患者解放が神話のように讃えられるべき話として扱われ、それがわざわざ芸術作品として表現された、ということだ。

これはなんとも素晴らしいことではないか。放っておけば悪をもなすと同時に、それはよくないと心のどこかでは気づいていて、ついに改革を起こすのもまた人間なのだ。


ピネルは一人で改革をしたのではない。どうやらさまざまな逡巡があり、ピュッサンという病院の管理人(しかも以前の病院でピネルの患者だった)に説得され、紆余曲折があって病院の改革、さらには社会改革に至ったらしい。


変わらないものが変わろうとし、ついに変わった。善意はあり、それは果たされたのだ。

ドラマである。



ピネルで精神科講談を作ろうかな。。



Ver 1.0 2020/10/25

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