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学習理論備忘録(37)『アクティブラーニング』

学習理論というか、学習についてのお話。勉強という意味のほうである。


私はよくワークショップを開催する。参加者に演習をしてもらうのがワークショップの形式だ。「体験学習」とか「活動集会」「研修」とでも訳せば良いのだろうか。今でこそ「ワークショップ」で通じるようになったが、昔はあまり使われる言葉ではなく、どういうものかと解ってもらうのには工夫を要したものだ。

あるいは、自分でワークショップという言葉を使っていてもそれを正しく理解していない人もいた。学会でワークショップの名の下に、結局ただの講義をするだけなものがちらほらあったのだ。そういうのに参加すると「騙された!」という気分になった。

だが、学びを得ることがゴールなのであれば、学びが得られる以上その手段は問わないはずである。それにも関わらず失望するということは、私はその過程自体を期待していたということになる。そう、私は自分がやるだけでなく、ワークショップを受けるほうも大好きなのである。


逆にワークショップが苦手な人も多い。日本ではとくにだろう。そういう人にとって「はい、今から隣の人とペアになってくださーい!」は、地獄の時間始まりのゴングである。いつそう言われないかと戦々恐々としている。Zoomの勉強会なら、ブレイクアウトルームに分かれる瞬間がそれに相当する。会社から「参加させられる」研修では、嫌がる人の割合が増す。


学校教育でも"アクティブラーニング"なる名前で、参加型の授業が流行っている。受け身の授業と違い、協力して考え、発表をする。従来型の聞くだけの授業よりも高い教育効果は見込まれるが、そういうのが苦手な児童もいるだろう。


ただ、「授業を聞くのは15分が限界」なんて子には、立って動き回れる授業は大助かりだ。

「学び」もすぐにテストされるので、身についたという実感も得られるだろう。それがまた学習を促進する。


ほとんど役に立たない教育法と、方法論としてはよくできているがきちんとなされていないから役に立っていない教育法がある。アクティブラーニングはどの教科でも可能ということにはなっているが、適用には教師の力量も問われ、実際にうまくなされるにはいろいろなハードルがあるだろう。

また、信仰に近い思い入れを持つ人が現れるいっぽうで、


「こんなものは役に立たない」

「まだこんな馬鹿なやりかたやってんの?」


と、反射的に方法論への悪口を言う人も必ず現れる。単に自分が不得手であることを方法自体のせいにしてけなしているだけなのであるが。研究によって「優れた効果がある」という充分な証拠があってさえ根拠のない批判をする者が、専門家でさえよくいる。何でも好きなように批判して良いというものではあるまい。


ただ、参加型学習そのものの学習効果については、「参加」を促すことで集中力も高まるとか、記憶が定着しやすい、とは理屈上言えるだけだ。本当に成績が上がるというエビデンスが充分にあるとは言いがたい。


とはいえ学習方法に「エビデンス」なる、研究者が求めるような証拠を要求するのも無理がある。「児童が意欲的に学習に取り組めた」という手応えは、現場で感じるべきものだろう。臨床と違い教育では、工夫は常識的範囲で経験的になされるものだ。「人との関係性を測る尺度で有意差が出ないから、挨拶はしません」などと主張すれば、人としてずれているだろう。


ここ100年くらい、さまざまなワークショップ、構造化された体験学習の方法が作られ、あらゆる分野で広まっている。教育の方法論にもブームがあるが、その中でも参加型学習の広まりはかなり大きな転換であるはずだ。私自身はそれをとても面白く見守っている。


Ver 1.0 2021/6/8

学習理論備忘録(36)はこちら。



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