福祉と援助の備忘録(24)『ケースカンファレンスの罠』
(写真は、我が店の玄関に待機しているGUILTYちゃん)
福祉と援助の備忘録の5回目でも事例検討の野中方式の話はしたが、またそれにも関連するようなことを書く。ケースカンファレンスを無駄なものにしてしまう、落とし穴の話だ。
今、とある生活困窮者のケースカンファレンスをしているとしよう。それは油断すると、さまざまな罠に陥る。
まず、ありがちなのがおしゃべりの罠である。気がつくとカンファレンスが、対象者をネタにしておしゃべりを楽しんでいるだけになってしまうのだ。会議を構造化しないせいでそうなってしまうことも多い。だがそれではプロ同士の話し合いであるのに、困窮者の近所の人々がする黒い噂話と大して違わなくなってしまう。
そこに、支援者ゆえの脱却できない価値観も加わる。支援者の色眼鏡の罠である。
たとえば
といったメッセージは、現場でよく聞かされるものだ。支援者の中に「支援像」というものがあり、お作法通りに「支援した」という形が作れば「支援者」はつい満足する。これらの発言は、それがスムーズに進むのを妨げられたときになされる。
中でも、当人から支援そのものが不要だと拒まれるのは究極の妨げである。これに対して支援者は、自らの存在意義を全否定される危機を覚える。やっきになり、敵意を抱きさえするから用心したほうがよい。
自分たちが当たり前だと思っていることを問い直す、メタの視点が必要である。学生のうちにそういう視点を養う学問をやっておくことが大事だろう。
ややこしく考えすぎる罠もある。それをあと押しするのが支援者っぽい言葉という品のないものだ。小難しい、専門用語のようでいて俗語の意味しか持ってないようなものもある。
例えば面接中に対象者が、家族と引き離されてさびしいと言ったとする。そのとき、遠くで咳払いをする音が聞こえ、そちらを向いたとする。すると福祉職・医療職は後々のカンファレンスで、「感覚過敏かな」「なら発達障害じゃない?」というような議論を平気でするのだ。障害の「レッテル貼り」である。考える必要があるのは、家族と会えないさびしさについてでは?
納得を求める罠、というのもある。援助職が腑落ちするために情報収集をしたり解釈をしたりするのだ。その人が幸せになるなら「なんであんなへんぴな町でくらしたいんだろう?」などという支援者の疑問はどうでもいい。
野中方式はアセスメントを果てしなく重視する方法論のひとつだが、私はアセスメントをしすぎる罠もあると思っている。アセスメント自体が目的になってしまうのだ。家族構成をひたすら埋めることにやっきになっても、会議全体の時間は限られているのである。問い尋ねるべきことは吟味した方がよい。
逆に充分な情報が得られないと、納得を求める罠は決めつける罠に変わる。
と下衆な勘ぐりが始まり、仮説は確信に変わる(妄想かもしれない)。
本当は広くあらゆる可能性を想定しつつ、知り得ないことについては知り得ないままにしておくことが大事なのだが、「専門家」にはそれが難しい。プライドが高くてすべてをわかっているふりをしないと自信を失うのかもしれないし、曖昧さへの耐性の問題かもしれない。だが、わかった気になるのは奢りというものである。
すぐ諦める罠もある。支援の定番パターンを外れるともうどうにも考えられなくなるのかもしれない。発想が乏しければブレインストーミングは無駄だ。これだけなら罠というよりは能力不足なのだが、そこに「こりゃ難しいよね」という口癖が重なるとこの罠に陥る。カンファレンスはそもそも要らなかったものになる。
頭は使うためにあるのだが。
逆に解決策に走る罠もある。ただのおしゃべりで終るよりはずっといいのだが、情報収取が不充分、見立てもいいかげんでは、そこから適切な結論は出せるわけがない。
ところでケースカンファレンスというものは、議論の一種だ。議論では対立があるとしばしば感情的になる。それも落とし穴であるからそこは目指さなくてもいいのだが、ケースカンファレンスで議論が熱くなることが極端に少ないように思われ、私はそのことに危機を感じる。人を幸せにすることに、もう少し熱くなってもいいのではないだろうか?
野中先生はケアマネジメントの本質を「寄って集って、その人を幸せにすること」と言った。「ただ単にあくせくしている」という以上に、「当事者に顔向けできる真剣さ」を持てることが、支援者として飯を食える資格なのではないかと思うのだが。
Ver 1.0 2023/3/15
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