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【長編小説】 異端児ヴィンス 10

 危機はある日突然やってきた。
 その朝目覚めた時、私はもはやテオに対しては、語るべきことが何も残っていないことに気づいた。
 その日は平日で、彼はいつものように先に起きてひとりでピーナッツ・バタートーストとコーヒーの朝食を済ませ、クリーニングから帰って来たてのスーツに袖を通してネクタイを結んでいた。
 私はノロノロとした動作で寝室から出ていった。いつものように、彼におはようを言うために。
「Bonjour、テオ」
 彼の首に腕を巻きつけ、軽く口づけをしてそう言う。朝そうすることは一緒に暮らし始めた時からの約束事であり、元々テオの提案だった。髭をきれいに剃ったばかりの柔らかい頬に、アフターシェーブローションの清潔な香りがする。
「酒臭いよ。早く顔を洗いに行って」
 テオが邪険な調子で言った。育ちがよくて温厚な性格のテオがそんなことをするのには、よほどの理由があったに違いないのだが、けれどその口調とあしらいが、不意に私の心の中にあった〝何か〟を弾いた。
 それは、「食ってかかる」という表現がぴったりだった。なぜならその時私はそれをテオの宣戦布告であると感じたし、またこれまでには一度もそんなことをそんな口調で言い放ったことはなかったからだ。
 この気持ちの揺れは、すぐに私に次の行動に反映された。私は無言できびすを返すと彼の横をすり抜け、バス・ルームに駆け込んで激しくドアを閉め、顔を洗い始めたのだった。
 すぐにテオは飛んできた。後ろから包み込むように抱き締め、どうしたの、と、いつもの優しい口調に戻って言う。私にしても、こんな暴挙に出たのは初めてなので、彼は大きく動揺している。
「どうしたの、じゃないでしょ。あなたの方がもういつもと違うじゃない」
 私は日本語で言った。
「均衡が崩れているの。均衡が崩れているの」
発作のように震える声で、続けて言う。
「均衡」という日本語の意味を、彼は咄嗟とっさに理解しない。このことがすでにもう耐えられないほどもどかしい。彼との心の距離が、無限に開いていくのを感じて私は切なくなる。
「私には、あなたに言うことはもう何もない」
 思わず私はつぶやく。母国の言葉で、今まで頑なに封じてきた本心がほとばしってしまった瞬間だった。
 
 テオは私を抱き締めていた手を離して、バス・ルームの入口まで後ずさりする。彼はいまだかつてない、冷たい視線で私を凝視している。そこにはあからさまな憤りと侮蔑と、痛々しいほどの失望があった。
「……関心の対象は、いつも自分」
 やおら彼は始めた、まるで詩のように美しく響く彼の母語、フランス語で。
自分の・・・置かれている状況、自分の・・・心の動き、自分の・・・目指すもの、自分の・・・正体、本当の姿。自分の・・・中にある葛藤、焦燥、不安……」
 まるでボードレールの詩の朗読を聴いているようだった。テオは続ける。
「君の考えていることは、いつも自分の・・・ことばかり。そんなことで、君は君の周りにいる人間に関心を持つことができるわけがなかったよ。今目の前にいるこの僕にも、勿論ね……」
 テオの声がいかにも悲しげに宙を舞う。私は真実から気をらすかのように、ボードレールの朗読に聴き入っている。
 そして今、まさに映画のスローモーションのように、または制御しようのない流動性のゲルのような夢の中の一場面のように、彼は玄関のドアを開けて出ていこうとしている。
 何が起こっているのか、全くわからなかった。自分が何をしたのか、何をしなかった・・・・・・・のか。
 私の体は動くことをやめ、凍りつくような瞬間が、喉を締めつけながら通り過ぎていった。それはいっとき私の脳の働きさえも凍結した。
 私はただ呆然と、その場に留まっていた。
 やがてテオの姿を飲み込んだ扉が、パタンと音を立てて閉まった。
 
 
 ――それから毎日、ヴィンスに会いたくて私はデュー・デュ・シエルに通ったが、彼の姿を見ることはなかなかできなかった。人々は彼の不在を異常事態と受け止めていた。だが彼らの関心は、ヴィンスがいない間、彼がどんな状況におちいっているかという事柄に終始していて、誰も彼自身の進退といったことはまるで意に介していないようだった。しまいには男たちが、ヴィンスがこのパブ通いを「お休み」している理由をネタに賭け事を始めるまでになった。というのも、誰もが遅かれ早かれ彼がここに戻ってくることを確信しているからだった。
 ある者は、ヴィンスはいつぞやの美人のラテン女に入れ揚げているのだと言い、またある者は、きっと金回りが悪くなって飲むこともできなくなっているのだろうと心配した。早いところ生活保護が下りるといいが、と彼は言った。
 どんな状況でも、ヴィンスは常に彼らの話題の中心だった。彼の不在ともなれば、なおさらのことだ。でもそんな中で私ひとりだけは、のんびりと彼らの憶測合戦に参加しているわけにはいかなかった。
 私は焦っていた。テオと決定的とも言える仲違いをしてからは、心の中はすさみきって、このシビア過ぎる状況をヴィンスに救ってもらいたかった。私は毎日ヴィンスを探していた。通りの上で、地下鉄で、スーパーマーケットで、パブで……。
 けれど彼を見つけることはできなかった。彼に会ったのは女性と一緒だったことを指摘して返り討ちに遭ったあの夜が最後だったこともあって、ヴィンスが姿を消したのは自分のせいではないかと私は思った。だが幸い仲間たちの話によると、あの日以来もヴィンスは続けて何日かは姿を見せていたということだった。安堵したが、そのことは私の心に何の救いも与えてはくれなかった。
 心から消えてしまったテオ。姿を消してしまったヴィンス。二人の男達を、私は恋い焦がれた。その不在を心から哀しんだ。そして、いつまた日の目を見ることになるやとも知れぬ暗い日々を、頭を低くして何とかやり過ごそうとしていた。
 本当を言うと、私はもう一度、きちんとテオと話がしたかった。もっと正直に自分の気持ちについて話し、彼のことをどんなに大切に思っているか、そういうことをきちんと伝えて、できるならば彼にも心の中を見せてもらいたかった。
 でも、そうするためには、一度ヴィンスから魂の洗礼を受ける必要があるように思われた。今のまま丸腰でテオに対峙しても、心に決めた通りの行動を取れる自信が私にはなかったのだ。ヴィンスに会って、私の今の情けない状況を知ってもらって、いつものように叱咤しったされて勇気と前に進む力をもらいたかった。
 その考えは、あの日知らずに彼を傷つけてしまったのかもしれないという危惧に端を発していたのにもかかわらず、私自身の問題においてもはなはだ重大な事柄であったのだ。
 ヴィンスが、私よりも問題を抱えていなかったとは思っていない。むしろ彼の問題の方が、私のものよりも根本的に深刻だったはずだ。
 思うに、彼はいつも欲求不満の塊のような存在だった。何ごとにも満たされない不機嫌な顔で、この世の成り立ちや秩序にテコ入れをして、それらを根底からひっくり返したがっているかのようだった。彼は時折恐ろしいほどのパワーを秘めているように見え、それを人々は怖れ、うとましがったのだ。
 あるいはそんな彼に対して、私は卑怯な優越感を覚えていたのだろうか? 
 だとしたら、私は人でなしだ。
 
 私が次にヴィンスの姿を見出すことができたのは、年も改まった一月のことだった。彼は何ごともなかったかのように、いつもより遅い時間にふらりとパブに現れた。
 長い彼の不在の間に、カウンターの隅の席はもはや彼の特等席ではなくなっていた。今宵は恰幅のいい中年の、赤ら顔のフランス人男性がその席に坐っていた。
 ところがこれはいたくヴィンスの気に入らなかったらしい。彼の中にとぐろを巻く欲求不満が爆発した。
 店に入るやいなや、ヴィンスはつかつかと男性のところに歩み寄り、いきなり大声でその席を譲るよう迫った。午後八時のデュー・デュ・シエルは客数の増える時間帯に差しかかっており、少しずつ混み始めていた。
 だがヴィンスはそんなことは何も関係ないといった調子で叫んだ。「ここはずっと長い間俺の席だった、今も俺の席はここにしかないはずだ。新参者のあんたはこの俺に敬意を表して、すぐにこの席を立ち退くべきだと思うがねえ!」
 このパブの奥の醸造所で作られるオリジナルビールの味に御満悦だった赤ら顔のムッシュウは、この突然のならず者の襲撃に一瞬ひるんだが、すぐにフランス人らしい誇りを取り戻して胸を張り、ヴィンスに彼に対する無礼を謝罪するよう要求した。
 だが誰がどんなことを言っても、このヴィンスを抑えることはできなかった。店のスタッフが止めに入るのを待たず、すぐに取っ組み合いの喧嘩が始まった。それはすぐに、このパブ始まって以来の大乱闘へと発展し、狭い店内は一瞬にして阿鼻叫喚の地獄と化した。カウンター近くにいた客達の中には、飛んできたスツールがまともに当たって負傷する人もいたし、特にヴィンスは辺りかまわずグラスやピッチャーを放り投げたので、例え入口近くで飲んでいた安全圏の人達でさえも、もはや安全とは言えなかった。
 警察が到着すると、私達はできるだけ速やかに店の外へ避難するよう誘導された。店を出る直前に振り向くと、ヴィンスは警察官にも殴りかかろうとしていた。彼は前後の区別もつかなくなっている様子で、私達の目の前で腕っぷしの強い警察官数人に取り押さえられ、両手を後ろに組まされて床の上に腹ばいにさせられた時も、まだ大きな声で意味不明の言葉をわめき散らしていた。
 異様な興奮状態の中、我々は三々五々帰途につくことになった。
 ヴィンスのこのハチャメチャな振る舞いは、翌朝のニュースや新聞に大きく取り上げられ、結果デュー・デュ・シエルはヴィンスを今後一切出入禁止にせざるを得なくなった。長年通ってくれていた得意客ではあったが、店のこうむった被害と負傷した他のお客さん達のことを考えれば、この措置は致し方ないと思う、と、テレビ取材のインタビューを受けたオーナーのマルテンは落胆した様子で語っていた。
 だが幸い、私にはこの事件は功を奏したと言えた。なぜならヴィンスは逮捕され、警察署に拘留されていたからだ。彼はパブに顔を出すことはできなくなったけれど、少なくとも彼が今どこにいるか知ることができる。そしてそれは、逃げ出される心配もないところなのだ。
 市の中央警察署に、ヴィンスは一時的に拘留されていた。暴力沙汰を起こしたばかりの凶悪犯とされている彼に会うことは容易ではなかったが、幸いパブの常連の中に警察の関係者がいて、マルテンを通して何とか話をつけてもらうことができた。
 ヴィンスは、灰色のコンクリートで覆われた、いかにも寒々しい鉄格子の向こうの小部屋の中にいた。一時拘留ということなので、私たちに面会室は与えられなかった。しかし、またそれが、互いにガラスを隔てて電話での会話をする必要もない、直接の対話を可能にさせてくれたのであり、そのことに私は感謝した。
「ヴィンス」
 私は声をかけた。ヴィンスは狭い独房の中で、ベッドの上に腰かけていたが、私を見るとやおら立ち上がってこちらへ歩いてきた。
「やあ、久しぶりだな」
 彼は最後に別れた時に比べると、随分上機嫌に見えた。体の中に溜め込んでいた欲求不満の毒素を全部吐き出してしまって、すっきりしているかのようだった。
「調子はどうだい?」
 今度は彼の方から聞いてきた。
「テオと別れたの」
 私はうなだれて言った。寂しそうなトーンにならないようできるだけ努力したつもりだったが、思っていたより上手くいかなかった。私は相変わらずテオの不在という厳罰に苦しんで、打ちひしがれていた。
 私はヴィンスが何か突如として喋り出して、いつものように怒濤どとうごとく私を何の意味も成さない奇想天外な話の中に引きずり込んでくれることを期待した。けれど勿論それは場違いな願いだった。ヴィンスは警察に逮捕されていて、私はその面会に来ているのだ。
 彼は、黙ってじっと私の方を見ているだけで、何も言い出そうとはしなかった。アルコールの燃料が切れている今、ヴィンスには本来のヴィンスに宿る力が失われていた。
 ……代わりに彼はこう言った。
「なぁ、世の中全て上手くいくようにできてるわけじゃねえんだよ。例えこれまでの出来事が万事順調で、自分には何か神がかった力や護守が備わっているって思い込んでいたとしてもよ、今おまえさんが直面してる危機みたいなことにゃあ、何の役にも立たねえもんさ。おまえさんがこれまでそんな馬鹿げた思想を持って生きてきたとは思ってやしないけどな、とにかく、俺を見てみろよ。ははは、ご覧、このザマさ。自分で引き起こしたことの尻ぬぐいは、やっぱぁ自分でしなきゃなんねえ、ってことさな……」
 彼は両手を広げてすべてを受け容れるといったような仕草をして見せた。その姿は滑稽こっけいではあったけれど、それと同時にとてつもなくわびしくて、貧しげだった。私はなぜか、あのヴィンスとケベック人女性を見かけた日、モン・ロワイヤル通りとサン・ド二通りの角に立って通行人に紙コップを差し延べていたパンクロッカーの若者のことを思い出していた。そして突然、ヴィンスはあの若者と同じ種類の人間なのだということを理解した。
 ああ、ヴィンス。このどうしようもないアル中の酔っ払い。こんなことになって、これからどうするつもりなのよ? あのお気に入りの店は、この先あなたを迎え入れてはくれないのよ。
 私の問いに、ヴィンスは黙って肩をすくめた。どうってことないさ。俺なら大丈夫。これまでもこうやってやってきたんだ。何とかやっていくさ……。
 
 さよならを言うのもそこそこにその場を離れたのは、目の前にいるヴィンスがあまりにも頼りなげで憐れに思えたからだった。彼は広い世界の中に、独りぼっちで生きていた。その孤独のあまりの深さ、心細さに、打ちのめされた気がしていた。


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