【エッセイ】 海辺のリトリートと『ライ麦畑でつかまえて』
週末、海辺に退避してきた。
退避。英語では、リトリート Retreat というのだそうですね。
退避という言葉の響きの方が好きなのでそう言っているが、「退却」というのが正式な訳らしい。
でも退却はやですね。何か戦で追われて逃げ帰る、みたいな感じがして。
退避、といった方が、自分で決めて、賢明に対処してる感があって良いではないですか。 なのでここでは敢えて「退避」と言うことにしよう。
小説を書いたり、小説のことを考えたり、日々の雑事のことなどで頭がパンパンになりそうになると、やたらと海が恋しくなる。海の端で生まれ育った本能なのか、潮風に吹かれて磯の匂いを嗅ぐと、ただそれだけで身も心もクレンズされるような気がする。
先週末も、そのような次第で姉と海にリトリートした。
愛車の後部座席をフルフラットにし、バックドアを全開にして、一面海を見渡せるようにする。
持参のランチは海老とアスパラガスのサラダにグリーンサラダ、パンプキンスープと今回は何やらオシャンティだ。
今が旬のアスパラガスをムキエビと茹でて、マヨネーズにお酢、少量の柚子胡椒の特性ドレッシングで和えたサラダは絶品で、もう今シーズン3度目ほどのお目見えとなる。
キャンプや車中泊用にと意気込んで買った固形燃料を使うタイプのミニストーブとなんちゃってシェラカップを防波堤上に設置し、コーヒーを飲もうと画策する。ちなみにカップを含め、ターボライターまで全部セリアの商品。
コーヒーだけは、カルディである。
私はフレーバーコーヒーに目が無い。中でもこのカルディのバニラ・マカデミアフレーバーコーヒーは一番のお気に入りだ。
ちょうどコーヒー1杯分に欲しい量のお湯を沸かせる10~20分燃焼タイプの固形燃料を愛用している。
お湯が沸くまでちょっとかかるが、その間ゆっくり小説を読んで待機する。
読んでいて、「そういえば、これ前に一回通しで読んだことあるかもしれん!」という気がしてきた『ライ麦畑でつかまえて』。
でも何と色々と詳細な場面を忘れていることよ。
だが、なぜなのか、何となくわかる気がした……。
当時の私は、この主人公、ホールデン・コールフィールドに一切感情移入できなかったのだ。物語の始めっからずーーーっと不平不満や悪口しか吐かないこの16歳の少年に、その時の私は「何じゃコイツ? ひねくれ曲がったやな奴だなあ」という感想を持つことしかできなかったのだ。だが、それはひとえに自分の知識不足であり、本の読み込みの〝浅さ〟ゆえのことだったに過ぎないということを、今になってようやく私は知った。
この話、強いて言うなら寄宿学校に入るのがデフォルトになっているような割と上流階級のアメリカ人少年少女なら見事にぴったりと共感できようが、何の予備知識もない、時代も文化も異なる日本人の一般市民が読んだとて、前述の私の反応のように「何じゃこの文句と悪口だらけのひねくれ高校生は!?」という憤慨しか抱かないのではないかと思える。
今でこそ、ネットでちょちょっとググッてサリンジャーの生い立ちや経歴、生涯や作品について調べられ、ほとんど全てを一発で知ることができるが、当時はそんな知識を得るにはサリンジャーに詳しい文学の先生に聞くとか(勿論、そんな先生が身近にいるという前提で)、図書館かどこかに行って精力的にサリンジャーについての書籍を調べまくるかしなければならなかっただろう。情報不足という極めて高いハードルがあったのだ。
今、ネットでサリンジャーのことを調べ尽くして、『ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー』という映画も観て情報をアップデートした私が読む『ライ麦畑でつかまえて』は、全く違った印象を与えてくれる。
J.D.サリンジャーがNYでユダヤ人の父とスコティッシュ=アイリッシュの母の間に生まれ、幾つかの短編を書いて小説家としてデビューしたのち、第二次世界大戦に陸軍歩兵として従軍して、あのノルマンディー上陸作戦やバルジの戦いなどに参加し、ユダヤ人強制収容所の解放にも立ち会い、果ては終戦直後にドイツはニュルンベルクの精神病院に一時入院していたことを、世界的に『ライ麦畑でつかまえて』が話題になっていた頃に何人の日本人が知っていただろうか。
サリンジャーは戦後、自分が体験してきた戦争について、具体的には何も書き残していないという。その事実が、あの戦争が彼にとってどういうものだったのかを暗に物語っているようだ。
サリンジャーが『ライ麦畑でつかまえて』を執筆したのは、戦後、アメリカに帰還してのち、1949年から50年にかけてである。
そうしたことを踏まえて読む『ライ麦畑でつかまえて』は、以前何も知らずに〝ぺらっと1回読んでみた〟だけの時とは随分違った味わいを持つ。
激戦に次ぐ激戦を潜り抜け(一歩兵がノルマンディーとバルジを両方生き残るというのは、実際奇跡に近い確率だ)、父の同胞であるユダヤ人の強制収容所で行われていたことを目の当たりにして戻ってきた彼が、戦後何ごとも無かったように浮かれ騒ぐ拝金主義ここに極まれりのアメリカ社会を見て感じていたことが、この作品には如実に描かれているのだ。
今、手元で読み進める『ライ麦畑でつかまえて』は、前回よりも幾倍も深く、〝美味しい〟小説だ。ホールデンの汚い言葉を辿りながら私の脳裏に浮かぶ光景は、全く新しい角度で見える別の世界になった。
それはまるで、海辺で入れるフレーバーコーヒーの味にも似て、フレッシュな海風を包含してよりビビッドになった新しい味だった。
潮風混じりのフレーバーコーヒーをゆっくりと飲み終えた後、小一時間ほど昼寝をした。カフェインを摂った直後に気持ち良くグッスリ眠れるというのは、私の奇妙な特技の内のひとつだ。
曇り空の海辺。気温は高過ぎず低過ぎず、読書には最適の日だった。
私は夕方になるまで、ホールデン・コールフィールドの愚痴っぽい反逆に、微笑ましい思いと共感を添えながら優しく寄り添った。