【エッセイ】 夏の朝 蝉たちの命に寄せて
車庫側の窓から、背戸側の窓に向かって、心地よい海風が通り過ぎてゆく。風は、汗でじっとりと湿った背中と首筋を冷たくやさしく、なでるように吹いてゆく。
午前八時四十分。早起きの蝉たちは、この時間にはすでに大合唱のピークを迎えている。時間に追われる彼らは、今この時を限りにと、生命の讃歌を歌うように、単調で賑やかなその声を響かせる。そして、この先の一週間、その命終えるまで、うるさい、暑いなどという人間の思いなど知ったことかとばかりに、浦じゅうに声を轟かせるのだ。
だが、そうして第一陣の蝉たちがその生をまっとうすると、今度は第二陣の蝉たちが生まれてきて鳴き始める。そのサイクルは夏の終わり、本格的な秋が始まる前まで絶え間なく続くので、第三陣、四陣、おそらくは第八陣ぐらいまでは控えているのではなかろうか。
蝉の命は、短い。地上に生まれ出てから、賞味たったの七日間である。
けれど極めて限られたその生涯の中で、急ぎ、精一杯生きて、次の世代の生命を宿す。一個の成虫は死んでも、蝉という昆虫の形態と息吹とは、途切れることなく連綿と受け継がれてゆく。
自然の法則としてこれは当たり前過ぎるほど当たり前のことなのだろうけれど、よくよく考えてみれば感動的で、そこにはロマンすら感じられる。
今、例のウイルスだの命に危険を及ぼす酷暑だのでロマンを実践することにストッパーをかけられているかのような我々人間と比べると、この蝉のただあるがままの姿さえ自由奔放に見えて、羨ましさを感じてしまう。そして心の中でうめくのだ、
「我々にもう自由は許されないのか」と。
……ところが、人間はそこまで愚かでお粗末ではない。
人は本来したたかなものであり、多様な感性を持っているのだ。
その持ち前の感性を、周囲半径五mに振り向けてみよう。そうすれば、目に見えるものはもちろんのこと、手に触れるもの、肌で感じるもの、嗅げるもの、聴こえるもの、味わうもの、すべてがいつもより実感を伴って意外と〝刺さって〟くることに気づくはずだ。
今私は卓上にあるメープルシロップの瓶を見つめている。
冷蔵庫から出してきて時間の経ったそれは、夏の朝の湿気に均一な細かい水滴を発している。それはまるで、美術館に大切に飾られているガラス細工の工芸品のように美しく見える。
そしてその思いは、このあとの私の行動に、突発的なワクワク感を起こさせる。
私はこれからパンケーキを焼くのだ。
焼いている間の待ち時間、少しずつ膨らんでくる生地の様子とほのかに漂い始める匂い、そんなものを想像するだけでもいても立ってもいられない。
そうしているとまた、車庫側の窓から素晴らしい海風が吹き込んでくる。今は若干、汗も乾いている。
不自由を自由にすることは、不可能ではないのだ。