心に食い込んでいる本たち。
今回、春の連続投稿チャレンジに応募しようと思って、これまで読んできた本で、「これは」というものをピックアップしてみた。
……すると、メチャメチャわかったことがあった。
――私は、どうも「古典好き」であるらしい。
或いは、「懐古趣味」とでも言おうか。
〝わたしの本棚〟というテーマでお気に入りの作品の文庫本を並べ、スマホで撮影してみたのだが(表紙画像)、まあ言ってしまえば古臭い作品ばかり……。強いて新しめなのはオードリー若林のエッセイ『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』ぐらいではないだろうか。トーマス・マンあたりなどはもう古いを通り過ぎて「カビ臭いわ」と思われてしまうのではないか、と心配だ。
「渋い……渋すぎる……」
自分でも、心の声が聞こえた。
けれど、仕方がない。これが私の趣味嗜好であり、揺るぎない〝好みの一本柱〟なのだから。メチャメチャ懐古趣味のおばちゃんの〝好き〟という気持ちをぶちまけるだけの文章に付き合って下さる方のみ、最後まで読んでいただければ幸いである。
そう言えば、確かにここ数年、〝話題の本〟とか、〝最新刊〟といったものを買い求めて読んだことが無い。最後に新刊を購入したのは、村上春樹の『騎士団長殺し』だったような気がする。発売日は2017年2月24日ということだから、何とも7年も前になる。
最近読み始めたのもサマセット・モームの『人間の絆』第1巻やヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』だし、いつかきちんと読破しなければならぬと自分に課しているのは『ライ麦畑でつかまえて』だ。
ではひとまず、急ごしらえのこの〝わたしの本棚〟から、特に「心に食い込んでいる本」をピックアップしてご紹介していこうと思う。
『海流のなかの島々 上下巻』 アーネスト・ヘミングウェイ
あまりにも有名過ぎるアメリカ文学の重鎮の、遺作と言われている作品である。私はこの小説を手に入れた時、おそらくまだ高校生だったと思う。表紙カバーの擦れ具合を見てもらえれば一目瞭然だが、私はこの2冊をかなり長い時間、繰り返し読んできた。引っ越し先にも必ず携えていったし、なかなか読み進まないまでも、何故か「必ず読み通す」という強い意志だけは維持していたように思う。
当時高校生だったこともあって、この文庫本を手に入れた直後、私はまだこのヘミングウェイ独特のビシバシと引き締まった文体と、ちょっと人生に倦んでいる感のある成功した画家のおっさんが主人公という物語設定に魅力を感じることが出来ず、長い間自分の積読棚にしまいっ放しにしていた。
ところが、30を過ぎた頃ぐらいから、ようやく大人になってきたのか、この小説を読めるようになった。キューバ沖にあるビミニ島の風景、訪ねてくる3人の息子、息子達と使用人のキューバ人のオジサンのやり取り……。キューバという国の歴史や風土に憧れを持っている私は、突然受動出来るようになったその場所の臨場感を存分に楽しんで、上巻を読み終えた。
だが下巻を開くと、主人公も主人公を取り巻く状況も、大きく変わっていた。変わり果てていた、と言ってもいいかもしれない。上巻では親子のほのぼのとしたシーンが描かれ、キューバ沖の小島での海風の匂いのする生活が描かれ、クルーザーでカジキ釣りに行ったりなどして楽しいこと三昧だったのに比べ、下巻ではしょっぱなから気分は最低だ。主人公は口もきかずに極秘の仕事に明け暮れ、家を出ている間はずっと〝ある船〟の操縦桿を握っている。延々と続くオトコ達のバトル・友情・バトル……。
はっきり言って、下巻は楽しいといった描写が無い。それには理由もあり納得も出来るのだが、物語の最後へ読み進むにつれて、ただただ切なくなった。
けれど、それもまたヘミングウェイの物語に通底する〝リアリティー〟であるのかもしれない、とも思う。戦争のリアル、家族の悲劇についてのリアルを描こうとしたのだろう。
〝パパ〟へのやや粘着質な偏愛から、この作品はずっと私の本棚にある。
『魔の山 上下巻』 トーマス・マン
これもまた、近代ドイツが生んだ重鎮中の重鎮の代表作である。意識したことはなかったが、私は小説をチョイスする際に、その作家の背後に見え隠れする権威であるとか世の中のお墨付きといったものを重視していたのかもしれない。これもまた、20代前半辺り?、ブンガクというものに純粋な憧憬を抱いていた頃に手に入れたものである。
購入した、と言わずに「手に入れた」とわざわざ言うのは、かつて我が実家が書店を営んでいて、漫画だろうが小説だろうが手に取り放題というブンガク的酒池肉林生活を送ることが出来ていた私の幼少時代から思春期にかけての背景がある。
〝世界の至高の文学〟とも評されるこの小説は、所謂「教養小説」というもので、ある一人の単純な性格の青年が、ある限定された環境において、恋をしたり、教師とも呼べる人文学者から広い世界へ目を向ける為の薫陶を受けたり、自らも体を張って生と死のそれぞれ二つの世界を決定的なヴィジョンとして見るなど、様々な経験をして成長していく物語である。
――ハンブルク生まれのハンス・カストルプは従兄弟のヨーアヒム・ツィームセンが胸の病を患って療養しているスイスの標高高い山の上にあるサナトリウムに見舞いに行き、思いがけず自分も肺に病変部を発見されてしまい、そこに長く留まることになる。
これがものすごく大雑把なあらすじだが、勿論〝世界の至高の文学〟と呼ばれるだけあって、内容は濃い。文章はやや難解であるし、サナトリウムの施設やそこで療養する人々の生活に対する描写はこれでもかというくらい細かい。が、頭の中でイメージを構築するのに何故か難儀をする。翻訳がまずいとかそういった理由ではないと思うのだが、理由はよくわからない。素直な感想だ。
とにかく、根気強く我慢強く時間をかけて読破する必要のある小説だと思う。国も時代も人種も全く異なる――異なり過ぎる――物語であるから、入りにくいというのは否めない。
けれど、物語の背景、世界観が段々と身になじんでくると、少しずつではあるが、どんどん面白くなってくる。第一次世界大戦以前の時代、スイスの標高高い山の頂上付近にある〝国際療養所〟。当時のことだから、世界を席巻していた病として、当然肺病――結核――の患者達が治療の目的で滞在している。
しかもそこは、高級サナトリウム。多額の料金を払って当時最先端の治療を受けられるホテル並みのサービスの付いた療養施設なのだ。
そんな環境に身を置いて、思いもかけず長逗留するハメになるハンス青年。彼はそこで、数々の出会いを果たし、様々な人間模様を目撃し、青年期特有の赤っ恥経験など沢山の経験を経て成長していく。
『魔の山』については、別記事でいつかじっくりと書いてみたいと思っている。それほど私にとっては思い入れの強い小説だ。
『秋津温泉』 藤原 審爾
前項、『魔の山』の冒頭で、作家の権威であるとか時代のお墨付きのようなものを重視して読む本を選んでいた節があると言ったが、この『秋津温泉』に関して言えば、それとは全く逆の感性で選んでいる。
一度言ったことを覆すようで恐縮だが、私の読書遍歴の中には、そういう社会的なバックボーンを介さず、本能もしくは直感といったもの……ほとんど生理的とも言えるような、〝嗅覚〟のようなものが働いて読む本を選ぶといった瞬間もまたあったのだ(或いは〝ジャケ買い〟的な、視覚刺激に訴えられて、といったものも)。
この『秋津温泉』はまさにそんな風にしてチョイスした小説だ。内容も、あらすじも全くわからず、何となく手に取って何となく読み始めたのだった。こんな風に、全くの予備知識無しに〝巡り合う〟本というものがある。そして巡り合ってしまった物語は、一生の友となることがある。
――戦後の暗い日、主人公である「私」は、子供の頃毎年伯母に連れられて滞在した秋津温泉の旅館が出した新聞広告を見て、当時の日々に引き戻される。旅館「秋鹿園」にはカリエスを病む美しい少女、直子がいた。直子とのぎこちない交流は、「秋鹿園」の思い出に強烈に結びついた記憶として、ずっと主人公の心の中に残っている。
成長して大人になり、自らも肺の病を患っているらしい主人公は、いまや結婚して妻も子もある。戦後復興の為に立ち上がる体力も無いというのに家族を養わなければならないという重責に押し潰されそうになりつつあった主人公は、〝苦労するのに向いた〟性格の献身的な妻に背中を押され、ひとりで再び秋鹿園を訪れる。するとそこには美しく生い育った秋鹿園の娘、新子がいた。はちきれるような健康美を持つ新子は、以前から主人公のことを慕っている。新子に惹かれながらも、その若さと健全な美しさが主人公には眩しい。
小説全体を通して、軽い絶望と諦めの念が流れている。それはそうだ、妻子があって、戦後間もない混乱の時期に暮らしを立て直さなければならない、その上自分は病を患っている主人公に、一体何が出来るだろうか。それならばと開き直って、女をたぶらかしカネでも貢がせて挙句の果ては心中でもしようか、などといったワルにもなり切れない。
健康で、豊かで、愛に満ち溢れた人生というものに憧れても叶わないと最初からわかっている主人公の諦念が、一文一文に溢れて切ないのだ。
文庫本の解説文にもあるのだが、そんな人間の感情を、秋津という架空の温泉地が優しく癒す。解説者は、〝秋津の空気〟というものが全てを包み込み、流していくといったことを書かれていた。私もそれに激しく同意する。
この作品の真の主人公は、この秋津温泉に充満する、悲喜こもごもを吸収して癒す、空気なのだ。
鄙びた温泉街の宿に泊まってじっくりと読むととても雰囲気を感じられる小説である。
『ブランコのむこうで』 星 新一
中学時代、店の本棚から家に持ち込んでは繰り返し繰り返し読んでいたのが、ショートショートの神様、星新一である。
その星新一の、数少ないショートショートではない作品のひとつがこの『ブランコのむこうで』だ。
ストーリーは勿論、星新一一流のSF仕立てだ。
――何かが起こりそうな感じがしたその朝、〝僕〟は〝自分にそっくりな顔をした〟少年に出会う。
ある拍子に、〝僕〟は〝自分にそっくりな少年〟と入れ替わり、現実ではない不思議な世界に入り込んでしまう。
それは、夜誰かが見ている夢の世界だった。〝僕〟は色々な人の夢から夢へと移動しながら、その人達が心の奥に持っている悲しみや懐かしさ、悔しさや熱望など、色んな気持ちに触れていく……。
ざっくりとした紹介だが、これだけでも、十分魅力的なストーリーではなかろうか。
ひとつひとつの夢の物語も面白いけれど、私は特に導入部の、わけのわからない〝自分〟を追いかけて行くくだりが好きだ。ゾクッとする。
小学生の頃学校の図書館で『となりのゴッペ』や『ハンカチの上の花畑』、『霧の向こうの不思議な町』などを読み、現実世界と背中合わせに存在するような身近な異世界や不思議な存在との遭遇を描いた物語に惹かれていたので、この〝もうひとりの自分〟を介した異世界への冒険行は、私にとって非常にミステリアスで、身近で、かつちょうどよく心に収まる物語だった。
物語の終わり方が、『となりのゴッペ』のようにその異世界の存在が絶妙な余韻を残していなくなる、といったところもたまらない。
短い話が章ごとに分かれていて読みやすい構成なので、読んだことのない方がおられたらぜひ一度読んでみて欲しいと思う作品だ。
『ナイン・ストーリーズ』 J.D. サリンジャー
これも20代購入の30代以降完読の小説だ。
ナイン・ストーリーズと言う通り、9つの独立した物語から成る短編集である。
確か晩年サリンジャーが他の作品と一線を画して、自ら厳選して取りまとめた作品ではなかったかと思う。
それだけに、一作一作への作者の思い入れの深さが感じられるような作品だと思う。ページを開いてまず最初の作品、『バナナフィッシュにうってつけの日』。この話からまずガツンとくる。
〝バナナフィッシュ〟とは、戦時中アメリカ軍が兵隊に飲ませていた覚醒剤のひとつらしい。第二次世界大戦に従軍して、戦後しばらくの間ドイツで精神病院に入院していたサリンジャーが、その心情を作品にぶつけたものだろうか。唐突に終わる最後のシーンにショックを受けた。
他、8つの小編が連なるのだが、個人的に私が気に入って忘れられないのは、『コネティカットのひょこひょこおじさん』という作品だ。
何故? と聞かれると答えに困るのだが、一言で言ってしまうなら「作品の雰囲気がいい」。これもまた本能だ。時に小説と向き合って、ああこれが好きだ、と〝肌〟で感じることがある。これもまた、そういった作品だ。
――小さなひとり娘がいる主人公は、ニューヨークの北、コネティカット州に住んでいる。ある寒い冬の日、彼女の家に、旧友が訪ねてくる。二人は大学時代からの親友で、昼間からお酒を飲みながら昔語りに花を咲かせる。
主人公は、昔付き合っていた恋人のことを話し始める。大学時代、いちばん大好きだった彼氏。彼氏と遊びに出かけた時のことを彼女は語る。彼は面白い性格で、いつも彼女のことをからかって笑わせていた。バスに乗り遅れそうになって二人で走った時、彼女が転んで足をくじいてしまった。彼氏は「かわいそうなひょこひょこおじさん」、と彼女のことを呼び、その彼の存在全てが若い彼女の心に突き刺さっている。何故なら、彼はストーブの爆発事故で死んでしまったから。
それから他の男性と知り合い結婚し、戸建ての家に住んで娘も生まれ、住み込みのメイドも雇えるくらいの生活をしている。
けれど彼女はちっとも幸せではない模様。眼鏡をかけた、まだ小さい娘のことも、愛せない。
この作品もまた、最後の一行がグッとくる。昔、純粋な気持ちで強く彼のことを愛していた自分が、フラッシュバックのように甦って消える。
この短編集は、どれも風景・人物描写が素晴らしいのだが、読み通してみて全ての物語に共通している設定があることに気づいた。
それは、〝大人と子供の会話〟である。
『コネティカットのひょこひょこおじさん』は娘に辛く当たる絡みしかないので例外かもしれないが、その他の作品では、必ずある大人と小さい子供が会話を交わし、心を交流させる。この設定を使ってサリンジャーは何を表したかったのだろう? 生きていく内に余りにも色んなものを抱え込んでしまった大人に質問をさせて、子供の純粋な魂から答えを引き出そうとしたのだろうか?
この大人と子供の交流を通した響き合いから、何を汲み取れるか考えてみたい。
あ、『ナイン・ストーリーズ』はもう一度読まなければいけないな、
と思った。