【長編小説】 初夏の追想 5
私は無為に時間を潰しながら、日々を送った。一日のほとんどの時間を、二階のバルコニーで過ごした。携えて来た文庫本の小説や、趣味で集めている西洋絵画の解説本などを、座り心地のいいデッキ・チェアの上で読んだ。私は絵を描かないが、昔から美しい絵を見るのが好きだった。周りの家族には誰もそういう人はいなかったので、自分にそういう嗜好があるのは、もしかして祖父との血の繋がりによるものだったのだろうかと私は改めて思った。
そこからは、眼下に広がる森や、遥か彼方の素晴らしい山並みを見渡すことができた。山の麓には農業で成り立っている小さな町があり、幾つもの大きな田んぼや畑が広がっていた。田畑に沿って小さな住宅がポツポツと点在し、その風景はこのような場所から俯瞰で見ると、古いパステル画のように心地よくぼやけて、牧歌的な色彩を帯びているのだった。大空は厳粛なほど蒼く澄み渡って、晴れた日には怖いくらいに研ぎ澄まされた色合いになった。その空に繋がって遠くに紫色に霞んでいる雄大な山々の峰を眺めていると、なぜか私はとても優しい気持ちになった。
胃潰瘍の症状は、少しずつ良くなっていた。ここでの生活を初めてから一週間で、私は麓の町の病院の医師から月に一度通えばいいと言われるほどまでに回復していた。
転地療養は、思った以上に効果を挙げていた。豆腐やお粥などの柔らかい食事しか摂ることができないため、体重が落ちてげっそりと痩せていたし、どうかすればまだ突然刺すような胃の痛みに襲われることもあったが、それでも会社にいたころには考えられなかったほど、症状は軽くなっていた。
けれど、この、誰とも会わず、何も生み出さない怠惰とも言えるような生活は、私の情緒にある変化をもたらしていた。私は生まれて初めて、〝孤独〟という状況に身を置いていた。こうして社会を離れて、祖父という同居人がいるとはいえ――祖父はいつも制作に当たっていたり、画材を買いに行ったり画廊へ用事に出かけたりと忙しくしていた――一日のほとんどを独りきりで過ごさなければならないでいると、世間から取り残されたようで、心細いような、虚無的な気持ちにもなるのだった。
私はしばしば、シーンと静まり返った離れの中で、独り黙想した。車通りもない、それどころか人の気配すらないこの土地の空気は、ただ静寂をのみ運んできた。ときどき、名も知らぬ小さな鳥たちの囀る声が聞こえる。こんな気持ちを何か慰めるものがあるとすれば、ここにこんな風に豊富にある自然のもたらしてくれる癒やし以外になかった。
なぜこんなことになってしまったのか。この先どうしていけばいいのか……。
考えてはみたけれど、答えは見つかるはずもなかった。
私は小さな溜息をついて目を閉じ、ソファに寄りかかって、不安な気持ちが沸き立つのに身を任せるのだった。
そんなある日のことだった。
私は、朝早く目が覚めた。最近は午睡を取る習慣がついたせいか、睡眠時間が足り過ぎていて、朝はやけに早く目が覚めてしまう。
私はベッドから起き上がると、厚いカーテンを引き、薄暗い部屋からバルコニーに出てみた。
まだ夜明け前だったが、空はほんの少し明るく、辺りは静まり返っていた。ちょうど春から夏へと移ろう時節で、そのためこの山中の森では早朝には常に霧がかかっており、眼下に広がる景色もその全貌を見せるでなく、ところどころ霞がかって、薄ぼんやりとしていた。風は少し冷んやりとして、肌寒い。しかし、冬のあいだの身を刺すような冷たい風に比べれば、その中にもほんの少しほころぶような油断があって、全身を強張らせて鳥肌を立てるよりは、ちょっとひとつ深呼吸でもして身体じゅうの筋肉を弛緩させ、気を許してもいいというような心地にさせられるのだった。
私は、寝間着姿のまま、バルコニーの手摺りのところまで歩み出た。
空気を、胸一杯吸う。深夜のうちに森の木々から生まれたばかりの、新鮮で清浄な空気だった。
私は、肺に入ってきた空気を、身体の隅々まで感じ取ることができた。その空気は血液中を巡り、身体の中心から指先まで届いて、私の中に生きる力の根源のようなものを覚醒させた。
――そうしていると、やがて、向こうの山々の峰から朝日が昇り始めた。私はそれを、無言のまま眺めていた。
黒々とした峰の稜線の辺りがほの白く閃いたかと思うと、次の瞬間、鋭い光が射し、ゆっくりと太陽が姿を現した。その動きはあまりにも緩慢でつかみどころのないものだったので、ずっと見つめていたにもかかわらず、私は、太陽がいったいいつその姿を山の稜線から離れるまで持ち上げたのか、見て取ることができなかった。
気がつくと太陽は、まるで私の目を欺くかのように、素知らぬ顔で、神々しく、今日という日を始めていた。
全身を持ち上げてしまうと、太陽の輝きはいや増し、これまで未明の静寂に沈んでいた辺りの風景を一変させてしまった。
降り注がれる強力なエネルギーを受けて、山の木々はハッとしたように目覚め、すぐさま緑の葉でそれを照り返し、その恩恵に応えようとする……。
この山全体が、まるでひとつの生き物であるかのようだった。
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