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爽やかな  シロクマ文芸部



爽やかな遺体   【1473字   

「爽やかな遺体」
その遺体の解剖の責任者だった内科医で監察医の石田医師の検案書の下書きに、そのように記してあった。
私の経験からしてグロテスクなものである遺体を前にして、そのような形容詞が浮かぶとは、どのような遺体だったのだろうという疑問が湧く。
後任の末次医師による正式な検案書にはもちろんそのような記述はない。
通常、司法解剖は死因が不明なものについて、それを解明するために行われる。しかしこの遺体についてはそれは明らかだった。したがって遺族の承諾を得てなされる承諾解剖という手続きが取られた。

あれから2週間を経て、遺体は家族に引き渡され、すでに荼毘に付され、確認することはできない。
「爽やか」・・・なにか他の言葉の書き間違えだろうか、たとえば「穏やか」だとか。医師が用いるには相応しくないとしても、その表情からそのような表現がなされることはあるだろう。しかし到底間違いそうにない漢字ではある。

24才の女性の遺体は「爽やか」と形容するに相応しくないとは言えない状態ではあった。浴槽の中で発見されたその遺体は両手首に躊躇い傷のない鮮やかな切り口の深い傷が残されていた。自殺だとすれば通常、躊躇い傷の2本や3本はあるものだが、それがないこと。そして両手首であったこと。いっぺんに両方を切るわけにはいかないため、どちらかを先に切る。その傷ついた手で、もう一方が果たして切れるものだろうか。以上の不審な状況を以って解剖の運びとなった。
死因は失血死。したがって遺体は綺麗だっただろうことは想像がつく。

石田医師がそれをそうと感じたとしても、それをメモに記すだろうかという疑問もある。
もうこれを石田医師に確かめることはできない。このメモを残した翌日、石田医師もまた自死を遂げた。それも手首を切って。こちらは典型的な自死の傷が左手首に残されていた。
この二つの死に関係性はないと言えるだろうか。女性が占いを生業としていたことも、この死に様々な憶測を呼んだ。私がいくら文書と睨めっこを続けても、この問いに答えを出すことは叶わないだろう。



公的にはこの二件の死については自殺として処理された。したがって以下は後日談である。公的には何の意味も持たない、証明力のない伝聞である。

ある日、亡くなった石田医師の奥方の佐智子医師が警察署に青い顔をして現れた。
石田佐智子医師によると、ご主人の遺品を整理している時に、日記が見つかったという。鍵の掛けられたそれを壊してみたところ、ある女性患者のことが事細かに記してあったそうだ。
Aという名のその女性の精神は至極正常だが、その語るところは常軌を逸していたとそこにはあった。
占い師である彼女Aはある日訪ねてきた客に嫌悪したという、その客は明らかに悪魔の条件を備えていたからだった。その時点で精神を病んでいるのではと疑いたいところだが、今となってはどうしようもない。
そしてAは「私しか、その人物を葬る機会を持ち得ない」と語り、それを為した暁には、両方の手首を割いて、体内の血をすべて流し去ってほしいと要望されたとそこには記してあったそうだ。
しかしそのAが言うところの「悪魔」に該当するような不審死体の報告はない。

石田医師はこのAの依頼を受けて、本当にそれを実行したのだろうか。また彼女の言葉を信じたのだろうか。もしAが本当に悪魔を葬ったのであったなら、それは石田医師にとって清々しい爽やかな遺体であったかもしれない。
またAが石田医師以外の誰かにも依頼をしていた可能性もなくはない。今となっては、もはや確かめる手立てはない。すべては闇の中である。
      了


小牧部長さま
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