映画『悪は存在しない』感想 不可解さが永遠に刻まれる怪物的作品【ネタバレあり】
後半でネタバレ解釈しているので、注意ください。観終えてから、しばらく経っても何を目撃したのか、ずっと頭から離れません。映画『悪は存在しない』感想です。
『寝ても覚めても』『ドライブ・マイ・カー』『偶然と想像』など、世界的評価も確立しつつある濱口竜介監督の最新作。しっかりとヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞に輝いています。
もともは、音楽を担当している石橋英子さんが、ライブパフォーマンス用映像を濱口監督に依頼したことから始まった企画だそうで、そのライブ用サイレント映像『GIFT』と同じ撮影映像で作られた長編作品だそうです。
『ドライブ・マイ・カー』以降は、何を撮っても傑作になる巨匠のような凄みがある濱口監督ですが、今作も凄まじい作品になっています。観客の視点よりも遥か先を見据えて作品創りをしている感じはありましたが、ついにその飛距離が彼方まで行ってしまったかのように思えるほどの作品です。
『ドライブ・マイ・カー』『偶然と想像』では、言葉で編み上げられたような印象を受けましたが、今作の序盤では、それほど台詞は多くなく、その代わりに自然の風景映像が非常に印象的なものになっています。やはり企画時点ではサイレント映像の撮影だったからなのかもしれません。どのショットも一枚の風景写真として非常に芸術性が高く、とても映像の美しさに惹きつけられるものになっていて、このまま何にも話が展開していかなくても、ずっと観ていたくなるほどでした。
ただ、美しさだけでなく、映像できっちりと人の状況や背景を想像させるのは、濱口監督らしい手腕が光るところです。巧が薪割りや、湧水を汲み続ける作業風景は、一見すると自然に触れ合う豊かな生活と見えるわけですが、その場面を何の展開もなく延々と続けるんですよね。そうすることで、この豊かな生活するための作業に、多くの不便があるという側面を感じさせるものになっています。汲み水を入れた重たいポリタンクを車に運び、また戻って空のポリタンクに水を汲み入れるのは、観ているだけで疲労が感じられてしまいました。
物語が動き始める、グランピング事業計画が出てきてからは、濱口作品の十八番である、言葉の応酬という芸術になっていきます。住民説明会のやり取りは、ドキュメンタリー的なものになっていますが、作品のテーマにも感じられる(この時点では)超重要な台詞が、演技らしくない朴訥な喋りで語られるので、この台詞を考えるのも凄いんですけど、こうサラっとそれを放ってしまうような演出にも痺れるようなカッコよさを感じてしまいます。
「都会の人はストレスを吐き捨てにくる」「水は高いところから低いところへ流れる。高いところの行いは必ず低いところへ影響がある」「だから高いところの者は節度を求められる」
これらの台詞には、作中の状況はもちろん、現代社会にも深々と刺さるメッセージ性があり、思わず劇中の住民たちと一緒に拍手をしそうになってしまいました。
そして、住民たちにとっての「悪」である事業者側の描き方も、会話劇が用いられています。高橋と黛という2人は、もちろんただ単に事業を進めようとする悪人ではなく、芸能事務所で働く自分たちが何故こんな仕事をしなければならないのか? という葛藤を感じているんですね。それを車中の2人が延々と会話し続ける姿で描いていますが、ここも本当に絶妙な会話劇ですよね。話題があっちこっちに移り変わっていくリアリティと共に、本質的な言葉の部分はくっきりと浮かび上がってくるように理解出来るものになっていて、よくこんな演出が出来るものだと舌を巻いて結んでしまいそうになりました。
地域住民の人々、事業者側の人々で対立しているわけですが、それはある意味でどちらの人間も立場や内面性がわかりやすいものになっています。それに反して、主人公であるはずの巧と花の親子は、全く内面性が見えないものになっています。
巧の方はミステリアスな雰囲気がありながらも、地域住民と同じく自然を慮る発言がありつつ、事業者側にも協力する態度を見せるので、その内面に揺らぎのようなものがあるようにも思えます。
ただ、花に関しては、全く内面性を見せることはなく、その佇まいはどこか妖精的な雰囲気を纏っています。これは幼子だからと思って観ておりましたが、観終えた後では、それも意図的だったような気がしてなりません。
それは、観た人の誰もが驚かずにはいられない、あの結末を迎えたことで感じられることなんですよね。本当に観ていて声をあげてしまいそうになるほど、仰天してしまいました。どんでん返しとも違う形で、それまで描いてきたもの、それを感じ取ったこちらの感情を、全く関係のない別種のものにしてしまう結末は、ある意味での「裏切り」の行為ともいえます。
ただ、そうすることによって、メッセージ性を持った調和的な美しさを持った作品が、得体の知れない怪物のようなものとして深く深く記憶に刻み込まれる作品になっているのも事実です。もうずっとこの結末が何だったのかということを考え続けてしまっています。
濱口監督、凄まじい才能だと思います。ほぼ狂人的な恐ろしさを感じるようになってきています。この人が作品を創る時代に生きていることを感謝したくなりました。
手前勝手なネタバレ解釈
えーと、ここからはネタバレ全開で、つたない考察を述べていきたいと思います。
花が姿を消してからが、この作品が最もドラマ的な展開を見せるわけですが、凡百な自分の脳だと、この事件が住民と高橋・黛を繋ぐ架け橋になるのかもと予想していたんですね。そうすることで、巧が持つ、人間と自然を繋ぐ役割が際立つようになっていくのかなと。
ただ、それが的外れなのはいいとしても、あんな形で裏切られるとは思いもよりませんでした。普通あそこでスリーパー・ホールドをキメる展開なんて、誰が思いつくんですか?
巧が「便利屋」と名乗ることで、住民側のために手を汚したとか、暴力行為を起こすことで計画を白紙にしようとしたという解釈を見かけましたが、あまり自分的にはしっくり来るものではありません。
やはりこのシーンも、序盤にある一枚絵のような美しさを持っているので、人間社会の側ではなく自然側の世界の風景になっていると思います。
巧の妻、花の母親が不在であるというのが、それまでの描写で理解出来ますが、死別の雰囲気がどことなくあります。花は自然側の存在であり、その妖精的な雰囲気があるのは、死の香というか、やはり現実社会に居る存在ではない空気が感じられます。
巧はそれよりも現実社会に或る存在として描かれているように思えますが、グランピング場に鹿よけが必要かもと提案した後に、その鹿たちはどこへ行くのかと自問するなど、どこか自己矛盾を感じさせます。つまり、此岸(社会)と彼岸(自然)で迷いながら生きているように思えるのです。
花の前に現れた鹿は、神の使いであり、彼岸である自然側へ導く者と思えます。それを理解したのか、思わずの行為かわかりませんが、巧が高橋を絞め落したのは、花と共に自然の存在になることを選択したように感じられました。
自然を守りたい地域住民と、その自然を利用した事業側の人間の対立、その狭間に巧と花いう主人公が置かれるのかと思いきや、住民と事業者をひっくるめた人間そのものと、自然そのものの狭間に置かれた巧と花という構造に思えるんですよね。そう考えると、感情の無い巧の仕草や言葉に、どんな想いがあったのか、何度も観返してみたくなります。
ただ、これらはあくまで、この作品の深淵のように真っ暗な「行間」を読み取ろうとした解釈に過ぎず、正解が出せる人間がいるとはとても思えません。観る人、個人の中でそれぞれの答えを出してみるしかなく、そこには正しさという快感や安心感は皆無で、心に不可解さが消えないことで、残り続ける作品なんだと思います。
はっきり言って、ある種、かなりの邪悪さもある作品のように思えます。タイトルが逆説的に思えてくるようです。傑作と評していいのか判断つきませんが、生涯忘れることの出来ない作品であることは間違いありません。
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