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映画『雨の中の慾情』感想 つげ作品とは別種の切実なる想い

 つげ義春作品とは別の「何か」が生まれており、それを良しとするかどうか。映画『雨の中の慾情』感想です。

 戦後の貧しい町で暮らす売れない漫画家の義男(成田凌)。ある日、大家である尾弥次(竹中直人)に呼び出され、自称小説家の伊守(森田剛)と共に、ある女性の引っ越し手伝いに駆り出される。そこで出会った離婚したばかりの福子(中村映里子)に、義男は艶めかしい魅力を感じる。義男たちの住む町のカフェで働き始めた福子。多くの常連男性客は福子目当てで通い、義男もその1人だったが、福子は既に伊守と懇ろの仲になっていた。伊守は、自作小説を発表する場のために、町のPR誌を作成して、各商店から協賛金を募って元手なしに事業を始めようと義男を巻き込むが…という物語。

 漫画家つげ義春の作品を原作として、『岬の兄妹』『さがす』、NETFLIXのドラマ『ガンニバル』で評価を不動のものにした片山慎三監督が映像化した作品。つげ義春ファンの自分としては、まず誰が監督しようが観ないとならないものなのですが、片山慎三監督という組み合わせは、ありそうで思いつかないものだったので、結構期待していた作品でした。

 これまでも、竹中直人監督・主演の『無能の人』、山下敦弘監督『リアリズムの宿』など、つげ義春作品には傑作が多いのですが、それらは、いかにもインディー映画的な低予算で作られており、その空気感がつげ作品にある困窮するほどの金のなさ、生活苦による窒息感を見事に表現しているように思えるものでした。
 それに対して今作は日本と台湾の合作であり、オール台湾ロケで美術も相当に金をかけているという、これまでのつげ作品の映像化とは明らかに異質なものになっているように思えます。

 表題作は、オープニングで流れる義男の淫夢そのもので、その後は『池袋百点会』『夏の思いで』『隣りの女』といった短編をベースに組み合わせた物語になっています。それらが当初は繋がっていたものが、徐々に夢オチ的に分断されていくことで、つげ義春の代名詞的な作品『ねじ式』に近い空気感を生み出すものになっていきます。

 これまでの実写作品を全て観たわけではありませんが、本作がもっともつげ作品の「性愛」の部分を再現した映像作品のようにも感じられます。原作にあるドロついた性欲というものが、画面から漏れ出ているような表現は、片山慎三監督らしい演出と撮り方から来るものでもあるかもしれません。

 成田凌さんの悶々と鬱屈した性欲も、つげ作品そのものですが、本作でのその性愛部分は森田剛さんの下品な存在感による功績が非常に大きいです。『池袋百点会』に登場する伊守というキャラが原作ではありますが、それ以上に不可解で、義男のコンプレックスを抽出したような見事なオリジナルあるキャラクターになっています。
 福子も義男にとってのファム・ファタル的な女性ですが、伊守には狂わされてしまうか弱い女という構図も、スタンダードな昭和恋愛模様として良く出来たものです。
 そして、これで終われば定番の映像化という感じなんですけど、これらを全て、夢の創作物としてしまうところからが、この映画が『ねじ式』的な方向に加速するスタートになっているんですよね。

 時折登場する戦時中の記憶というものが、義男の過去のように思わせて、実は現在という時間軸になり、その状況も少しずつ齟齬を加えることで現実かどうかわからなくさせています。この淫夢と悪夢の連続で観客を疲弊させて、判断力を鈍らせる効果があるように思えます。ここでの戦中描写も相当に映像、音響効果を使用しており、ちゃんと「恐ろしいもの」として描こうとしているように感じられました。
 物語展開的には、どの状況が現実かわからず、齟齬だらけのものになっているのですが、義男が不能であることが、戦闘中の傷によるものであるとか、少しずつ共通する部分を明らかにすることで、どの状況が現実のものであるかをちゃんと解き明かしていくのが映画物語的な仕掛けになっています。

 その仕掛けが判明するのが映画的なクライマックスになっており、それは長編ものとしては正しい作り方ではありますが、そうすることで、正直つげ義春作品の空気が霧散してしまっているようにも思えたんですよね。
 戦争による傷や、暴力の恐ろしさを伝えようとするメッセージ性の強さは確かに印象に残るものではありますが、その「強さ」自体がつげ漫画と相反するものであり、漫画のファンとしては、ちょっと原作との矛盾性のようなものを感じてしまう部分がありました。

 原作改変は大いに結構だし、『リアリズムの宿』なんかは、原作のエピソードのみを使用して全体としてはまた別のものを伝える物語になっている傑作なんですけど、そこには「つげ作品的な何か」というものが、しっかりとあるようにも思えたんですよね。本作のラストで生まれているものには、つげ作品とは別種な「何か」になっているように感じられました。

 それが良いという人も、もちろんいるのでしょうけど、個人的にはそこでちょっと観ているテンションが落ち着いてしまい、上手くラストに入り込めない感じがありました。それと、戦争描写はこれまでの日本の戦争映画では比較的に日本の加害性について描いているものにはなっていますが、それも幻想の一部かもとしているのが、ちょっと潔くないものに思えてしまったのも、ノリ切れない部分ではありました。あの結末がその罪の清算になっているのかもしれませんが、そういう風には受け止められなかったんですよね。

 自分にとってのつげ義春作品の魅力というものが、能動的にメッセージ性を訴えるものとは真逆であり、あくまで受動的でしか居られない人生の向き合い方、その可笑しさと哀しさを表現している部分なんですよね。そこに切実な感情を込めてしまうのはやはり別種のものになっていってしまうように思えます。

 まあ、あくまで原作は素材であり、片山慎三監督の作品であるとすれば、結構な力作であることに異存はありません。幻想的な実験映像作品でありながら、大作感もあるという、日本映画ではチャレンジングな作品だったと思います。こういう作品にもお金を掛けるべきではあるので、邦画の閉塞感を取っ払う契機になればいいですね。


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